どもりながら話すのも楽しかった!
この後、学生生活に戻る中で喋る事が増えていったんだけど、僕は自分がドモってるのが楽しかった。
今日天気悪いなと言いたいだけなのに
きょ、きょう、きょ、きょ、う、きょ、きょう、て、てん、てん、てんき、わ、わ、わる、わる、わるい、な。
僕は自分で話している言葉を聞きながら、俺はラッパーかよw ってなってた。
周りからはドモってるけど大丈夫?とか、ドモってるぞ(爆笑)みたいな嘲笑もあったけど、僕は気にならなかった。
どもりは恥ずかしい。どもりが喋るのは笑われる。どもりはダサい。
このような社会通念と言うか一般常識のようなものを言われ続けたけれど、そんなものは僕には関係なかった。
その人達が言ってる価値観を受け入れて、僕はどもりは恥ずかしいものだから話してはいけない?
どもりは笑われるものだから、人前で委縮しないといけない?
どもりはダサいから黙っとけ?
なぜ?僕がその人達の価値観を受け入れないといけない?
僕が受け入れるべきは、吃音症となった自分自身の事で、その自分が心地よく過ごすにはどうしたらいいかと言う事だけだ。
だから、周りの否定的な価値観は自分にとって必要かどうかと考えれば、もちろん必要ない。
そいつらの言葉の通りに生きる必要もないし、そいつらが僕の吃音症を治してくれるわけでもなければ、背負ってくれるわけでもない。
これは僕自身の事だから。
だから、自分の中で必要な価値観を取捨選択した。
そして、僕はどもりながら喋る事は楽しいと言う価値観を採用した。
今すぐ変えられない現実を今すぐ変えられるかのように振る舞うより、今すぐ変えられない現実は受け入れるしかない。
そして、受け入れるからには、今の自分を肯定して自分にとって幸せな選択をする。
そうやって一歩一歩進むしかないと思った。
だから自分がどもってる事は恥ずかしくもなんともなかった。
周りがどう思おうが、周りにどう言われようが、僕の今を受け入れられるのは僕しかいないわけだから。
僕は弱い人間だったから、自分を責め続ける事は出来なかった。
自分の事をダメだと、どもりは恥ずかしい事だと言い続ける事が出来なかった。
その苦しみに耐え続けるくらいなら、苦しみから逃げて早く楽になりたかったから。
だから、今すぐに変える事の出来ないどもりを僕は受け入れたんだ。