どもり(吃音症)は恥ずかしい事?
どもりが恥ずかしいと思うのは、どもりはダメだと思うのはなぜか?
ちゃんと話せない事がダメ?
言いたい事をちゃんと伝えられないのがダメ?
人と同じように出来ないのがダメ?
このような価値観はいったい誰から学んだのだろう?
少なくとも自分自身ではない事は明白だ。
だけど、このような価値観を知らないうちに自分の考えとして受け入れ、それを当たり前と思うようになっていった。
ここをもし、そのような価値観を知らないまま生きたとしたらどうだろう?
その世界ではどもりがダメだと言う価値観は存在しないから、どもりが恥ずかしいとかダメだとか思う事すら出来ないだろう。
だって、その世界ではそのような価値観は存在しないのだから。
だけど、この世界では確実にそのような価値観は存在する。
社会通念として一般常識のようなものとして存在する。
でも、ここで大切な事は、そのような価値観は自分の価値観じゃないと言う事。
そして、自分の信念は自分で決められると言う事。
僕は交通事故に会った時に、まともに喋れない事はおろか、文字もちゃんと読めないし、文字の理解も出来ないし、まともにお箸を持つ事も歩く事も出来なかった。
だけど、僕は自分に絶望し続ける事はなかった。
だって、僕は弱い人間だから、いつまでも自分を責め続けて生きる事を選択出来なかったから。
変えられない事実を責め続けるより、変えられない事実を受け入れる事を選んだ。
その方が、自分にとって幸せだと思ったから。
確かに、事故後は前のように話せなくなっていたけれど、言葉が思うように出なくなっただけと思う事にした。
それで自分を責めても仕方がないし、自分の思いを伝えるのは、自分にしか出来ない事だから、言葉が出なくても話し続けた。
周りから心無い言葉や、嘲笑もあった。
だけど、その人達に何を言われたところで、その人達が僕の吃音症を治してくれるわけでもなければ、僕の代わりに代弁してくれるわけでもない。
そんな人達の事で、自分の心をいっぱいにしたくなかった。
だから、僕は吃音症とどうやって付き合っていけばいいか考えた。
そして、僕が出した答えが
どもろうが言いたい事が出てこなかろうが僕は喋る。
これが僕の決めた、自分の信念だった。
僕はそこから、どれだけどもっても、言いたい言葉がうまく出なくても、笑われても、喋り続けた。
そして、吃音症のほかにも、ちゃんと歩けるようにとか、お箸を持てるようにとか、色々なリハビリを退院後も自分自身で行って回復していった。
どもりが出なくなったのは、事故から数年経ったあとだけど、ある時友達に言われてスムーズに話せている自分に気づいたって感じだった。
僕はその時にスムーズに話せているのか、どもっているのか気づかないくらい、日常で話す事が当たり前になっていた事に気づいた。
僕はどもりや吃音症は恥ずかしいものではないと思っている。
誰かに笑われても、自分は恥ずかしい事だと思わなかったから。
そして、そう思うようになったのは、僕がただ弱虫だったから、自分を責め続ける事や傷つき続ける価値観から逃げたかったんだ。
僕は、傷つき続けてもガマンし続ける強さより傷つき続ける事から逃げる弱さを選んだんだ。