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スタッフド・パペット・シアターの『ユビュ王』を観るための補助線

 2024年8月2日から日本各地で巡演されるスタッフド・パペット・シアターによる『ユビュ王』は、劇団の主宰、ネヴィル・トランターがコロナ禍中に制作し、69歳となったネヴィルの日本での最終公演を飾る作品である。
 私は8月2日にいいだ人形劇フェスタの2回目の公演を観ることができた。
 今から述べるのはその感想ではなく、観る前に、あるいは観た後にわからないことがあるとしたら、その時に参照することができるような覚書であって、自分用の備忘録と言ってもいいかも知れない。
 なので、いわゆる「ネタバレ」を含むから、それが気になる人は観終わってから読まれることをお勧めする。そして、その「ネタバレ」には、内容的なことだけでなく、技術的な、しかも作劇術的なことも含まれる。

閑話休題

 もしかしてこの先を読み続けたくないのに目に入ってしまった、ということを防ぐために、一瞬、クッションを入れておく。今回のスタッフド・パペット・シアターのツアーは8月2日のいいだ人形劇フェスタから始まり、札幌、名古屋、東かがわ、そして東京での公演が組まれている。それぞれの会場では公演とは別にネヴィル・トランターによるワークショップも開催される。
 なお、この文章を書いているのは、本当に自分のためである。以下に書くことには、作品を観ての感想は全く含めない。しかし、こういうことをすること自体、つまり、作品に対して何か反応し、それを積極的に形にしておきたいと思っていることそのものが、やはり、作品に対しての評価なのだと思う。
 では、以下、それについて書いていく。

『ユビュ王』には原作がある

 『ユビュ王』を書いたのはフランスのアルフレッド・ジャリ(1873−1907)で、初演は1896年の12月9日にドレス・リハーサルと次の日の本番での上演の2回のみだった。元になるテキスト群が発表されたのは少し前の1893年と94年である。
 ただ、実際に書かれたのはもっと古く、その時にジャリはまだ10代だった。『マクベス』『タイタス・アンドロニカス』(シェイクスピア)、『いやいやながら王にされ』(シャブリエ)そして『美味礼賛』(ブリア・サヴァラン)など、様々なテキストのパロディを混ぜ込んだ中に実在する先生をユビュとして登場させたものである。(後でその先生は政治屋になったそうだ。)
 これは重要なところで、つまり、「学生がふざけて嫌いな先生を主人公に書いたもの」なので、必ずしも「演劇」としては成立していない、つまり、作劇術に則っては書かれたものではない。観ている人を驚かせたり、内輪受けを狙ったりというのが主であって、特に最初の台詞が「Merde」、英語で言えば「Shit」であるところにもそれが表れている。当時の常識に照らし合わせれば舞台上でそのような発言をするのは到底考えられない。
 そのような挑戦をあえてしたところに革新性があり、また、伝統的な作劇術からはかけ離れたところに、後のシュルレアリスムを予見させるものがあり、という評価が現代ではある。
 しかし、芝居の1発目の台詞が「うんこ」であることを、「とにかくうんこで笑いが取りたいだけで、冷静になれば面白くはない」とか「子どもがやりがちな悪ふざけ」と捉えることもできるだろう。
 繰り返すが、『ユビュ王』はいわゆる演劇的な構造を持っていない。それを、いわゆる演劇的な構成を持つように直したのがスタッフド・パペット・シアターの『ユビュ王』である。余計な出来事や登場人物は削除し、下ネタもない。そして、作劇上、付与されているものもある。そして、それが狂言回しのNobodyである。

Nobodyはいない

 スタッフド・パペット・シアターの『ユビュ王』に最初に登場するのはNobodyである。そのような登場人物は原作には登場しない。Nobodyはユビュに仕えており、時折、クマと話をする。(このクマも、原作ではそのような重要な扱いは受けていない。出てくることは出てくるが、4幕6場というほぼ終わりのところだし、台詞もなく殺されて終わりである。)
 なお、Nobodyは、名前自体が言葉遊びになっている。

“Who are you?“
“Nobody.“
「誰だ!」
「誰でもありません」

 普通に訳せばこうなるのだが、Nobodyという登場人物なのだから

「誰だ!」
「誰でもない、です」

になる。ここは、字幕を見ながら、そこにかかってくる二重の意味、言葉遊びを掴むようにすると、よりこの人形劇の持つ不条理な面白みが増すように思う。

ポーランドは存在しない

 誰でもない登場人物は脚色されて足されたわけだが、それとは逆に、このお芝居の舞台となっているポーランドという場所は存在しない。「これから始まるお芝居の舞台について言えば、それはポーランドですーつまり、どこでもないところ(Nulle Part(仏)、nowhere(英)です」と、ジャリが上演前に述べた口上には書かれている。それは、原作が書かれた当時は、ポーランドは国として存在しておらず、国土は列強に分割されていた。
 それが、今日的な意味を持つのは、たまたま今の世界情勢がそうだということかも知れないし、ジャリの先見の明かも知れない。もちろん、スタッフド・パペット・シアターの主宰のネヴィル・トランターはそれを意識して上演しているのだろう。そして、原作が書かれてから今日まで、ポーランドで、ヨーロッパで、そして世界で何があったかは、ここで繰り返すまでもないと思う。

 おそらく、私が気づいていないことは他にも多くあり、上述した以外にも多くの補助線を引くことができると思う。何かあればぜひみなさまの補助線も読んでみたい気がする。また気づいたことがあれば書き足していきたい。

参考文献

『ユビュ王』の原作のテキストや解説は以下を参考にした。

Jarry, Alfred. “Tout Ubu” (ed. Maurice Saillet), Le Livre de Poche, Paris, 1962.
Jarry, Alfred. “Ubu Roi” (trans. Beverly Keith and G. Legman), Dover, New York, 2003.

補遺

 “Nobody“について追記するが、このやり取りといえば西洋古典の中の『オデュッセイア』だから、それを使ってもう少し説明する。ちなみに、古代ギリシャ語で“nobody“は不定代名詞“οὔ τις”で、オデュッセウスは機転を効かせてそれのアクセントを変えて“Οὖτις“、“Nobody“という人名にする。どういうことかと言えば、洞窟の中に囚われて今しも一つ目の巨人ポリュペモスに食われそうになるオデュッセウスが名を問われた際に

“Οὖτις ἐμοί γʼ ὄνομα·“
「私の名は「誰もなし」だ。」(第9歌366)

と答え、その後、オデュッセウスに目を潰されたポリュペモスが仲間の巨人に助けを求め、誰にそんなことをされたのかと聞かれた時に

“Οὖτίς με κτείνει δόλῳ οὐδὲ βίηφιν.”
「おゝ友らよ、暴力ではない、悪巧みで俺を殺すのは「誰もなし」だ」(同歌408)

と答えてしまうので、「一人住まいのお前に暴力を揮う者が誰もなしとすると」(同410)助けられないと言われる。(訳は全て、中務哲郎、京都大学学術出版会、2022)

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