ラットレース①

 この船にはネズミがいる。
 もちろん、どんな船にもネズミはいるだろう。
 しかし、これは大西洋横断のカヤックだから、ネズミが潜り込む隙間は無いはずだ。
 しかし、いる。
 最初に気づいたのは足だ。足の指の先を何かがくすぐるというのを海に出て20日目に思った。もしかしたらそれまでにも感じていたのかもしれない。しかし、自分の感覚として確かに受け取ったのは20日目だった。まるでネズミの様だと思い、慣れてきたからと言って余計なことを考えるものではない、と自分を戒めた。
 しかし、何かが通る時に足元をくすぐる、というのが続く。脳にその感覚がセットされてしまったのかも知れないと思った。何があるかわからない洋上では余計な感覚を入れる余地はない。どうにかして取り除きたいと思った。気を変えるために間食をしようとプロテインバーを取り出した。
 見た途端は何だかわからなかった。何度も見て、サングラスも外して見て、それでも信じられなかった。
 袋の端がかじられている。
 突然、イヤホンから声が飛び込んできた。
「おい、心拍数が跳ね上がったぞ。大丈夫か?」
 一瞬躊躇して、答えた。
「大丈夫、問題ない」
 船の動きから体の状態まで全てがモニタリングされている。ただ、精神メンタルだけはやり取りでしかわかりない。そんな中で「ネズミが出た」と言ったら…。初めての横断だし、信頼がない。すぐに中止になるだろう。それは避けたい。
 袋を開けて中を見ると、バーの端だけが齧られている。そこを捨てて、残りを食べた。食べながら、どうするべきか考える。船から一旦出て探すことができない以上、どうしようもないのだか、どうにかしなければならない。
 まず、貯蔵スペースだ。ここにいられると困る。食い荒らされたら横断どころではない。だから、ここから追い出さなければならない。
 どこに追い出せばいいんだと思って周りを見渡したが、わからない。
 いやいや、違う。海に落としてしまえばいい。
 しかし、どうやって?
 そう言えば、どうやって貯蔵スペースから足元に来た? つながっていないはずだから…。
 まさか、穴を開けた?
「まただ、疲れてきたのか?」
「いや、大丈夫、大丈夫だ」
「水を飲め。何か食べているか?」
「ああ、ああ…」
 船底…。いや、考えない。無心になれ。とにかく、手を動かせ。足をペダルに乗せて力を…。足の先にいないだろうか? いたとしたら…?

kayak/カヤック

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