岡田育さん主催 哲学対話茶会「片想いとは何か」に参加②
岡田育さん主催のオンライン哲学対話茶会「片想いとは何か」に参加しました。言語アウトプット苦手勢の私が、興味と勢いで参加表明した話はこちら
私が前提としていた話をします。
片想いの理想型は「成就しないこと」だと思います。
それにはまず「片想い」の対義語は何か、という視点が必要になるので、一旦このように定義します。
●恋愛対象においては、いわゆる「両想い」になること
●"推し"が対象であれば、自分の存在が認知されて対等な関係になること
「片想い」のスタンスは、歴代の推しから得たものです。
同性の舞台俳優である推したちは私にとっての恋愛対象では無く、だからこそ絶対的、かつ健全な「片想い」ができる対象でした。
推し①、推し②とは、出会ってからすでに四半世紀…もはや人生の大半を片想いしています。
①【神と崇める不可侵の推し】1992年~
②【勝ち目のない消耗戦を共に戦った推し】1995年~
③【好きが高じて距離を詰めすぎ(合法的に)、ケンカ別れに至った推し】2004年~2012年
ターニングポイントは、③。
舞台上の存在であった推し③が、あるきっかけで「定期的に会いに行ける推し」になり、そこから
→「私を認知している推し」
→「会話ができる推し」
→「(ある部分において)私に頼ってくる推し」
に発展しました。これは、片想いから一歩踏み込んだ状態です。
しかし、対等に話せることは、相手の人間性にも向き合うことでした。
推しが遠くの星であれば、その形のまま受け入れるのが当然だったのに、目の前に生身の存在として現れるとそれが難しい。
結果として決裂し、舞台・パフォーマンスの上では推し続けたい相手を、自ら嫌って離れて行くことになりました。
これ、つらかったな、本当に。
「かつてを見た眼で、今を見なくてはならない!」by オフィーリア『ハムレット』
……このメンタリティでした。川の流れに花を浮かべることは無かったけど。
なんやかんや愛憎入り混じる苦しい作業に数年を費やして、ようやく心の中から推し③を消し去り、同時に教訓を手に入れました。
・片想いとは成就を前提とした途中過程ではなく、それだけで成立したもの
・自分が好きであるという想いを貫く、貫けるように立ち回る=終わらせないことを目指す、その行為こそが真
⇒⇒つまり、片想いの理想型は「成就しないこと」
これが私の基本姿勢でした。
哲学対話茶会の冒頭、自己紹介がてらそんな話をしたところ、おひとりが私と似たエピソードをお持ちで深く共感して、話を継いでくださった。
「同じような経験の中で、推しが人間だと気付いてしまった」
「私は推しの二次創作をしていたのだと思った」
………
……………
私の長年の葛藤に名前がつきました。
え、逆に、なんで今まで気づかなかった??
二次創作というジャンルがあることは存じ上げています。
でも私は、生身の人間とコンテンツをそのまま享受するタイプのファンだと信じて疑いませんでした。何かを創作・制作できるクリエイティブな才能も無いしね。
でも、私、やってたんですね。
二次創作を。
生身の人間に対して。
いつの間にか、自分の好きな理想の推しを創り上げて、そして本人に対して「私の思う推しじゃない!」とフラストレーションを溜めていました。
これは、、私が加害者なのでは?
自分のために言い訳をすると、実際は状況がもう少し込み入っていたので、仮に当時その点を自覚していても、結果は同じだったと思います。
しかし、片想いの加害性に対してはこれまでずっと無自覚でした。
この時点で、本編が始まってまだ30分くらい。
でももう「なんて素晴らしい場所に来たんだろう」と思いました。
「片想いする側が強者」であることについては、ここから更に深淵を覗くことになります。
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