おくりもの
ここ最近、自分の一部が切り離されたような痛みを伴う別れを経験し、今まで感じたことのない感情がたくさん湧き上がってきた。
別れはいつもつらいけれど、あまりにも苦しいし寂しいから「自分は今まで感情を感じないように生きてきたんだな」としみじみ思うほどだった。
どんなにつらいことがあっても全然泣けない自分が、その人を想うと喪失感で自然と涙が出た。しばらくは自分が自分じゃないみたいだった。
友人に話をきいてもらったり、「今回の別れと今までの別れは何がこんなに違うんだろう」と自分の感情と向き合う中で気づいたのが、「彼は私自身だった」ということ。
たくさん話すけれど本音を隠して境界線をつくるところや、社交的に見せて向き合うことを怖いと強く感じるところが昔の自分とそっくりだと思った。私はそれを自覚してだいぶ克服したつもりだったけれど、彼を見ていると自分の弱さを見せつけられるようで、ただただ苦しかった。
そして、なにより彼は亡くなった父親に似ていた。お酒の力を借りないとうまく話せないところや感情を抑えこんで拗ねてしまうところ。大事な話し合いから逃げるから、傷つけないようにどうやってコミュニケーションを取るか、つねにそんなことを考えていたので、会わないときも彼のことを考えてしまい気が重かった。
別れて初めて「彼は、私の弱さや見て見ぬふりしていた過去の傷を受け入れる機会を与えてくれたんだ」と気づいた。一緒に過ごす時間は短かったし、周囲が交際を反対するほど結構ひどいこともされていたのに、感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。そして、どうか幸せになってほしいと思った。「父親を幸せにできなかった」というずっと見ないふりしていた思いと「彼を幸せにできなかった」という無念さがごっちゃになって、また泣くことができた。父親への思いをずっと消化できず、受け止めることができず、ずっと身体に保留しつづけていたんだと思う。それを、彼が解放してくれたように思う。それから、長年の体調不良が軽くなった。あんなに悩んでいたのに。
自分の感情と向き合う過程で、一年ほど前に理解したと思って読まなくなっていたノンデュアリティの本を引っ張りだして読んでみた。
上記の文章を読んで、彼との出会いと別れの意味が分かって、喪失感やかなしみや苦しみも自分の大事な一部なんだと受け入れることができて、また泣いてしまった。
そして、自分を愛するということが、他者や世界全体を愛するうえでとても重要である、ということにようやく気付いた。すべての人や出来事は、自分の投影にすぎない。世界はまさに自分自身だ。自分の弱さを受けいれることで、人の残酷さや弱さを愛せるようになった。全部、彼との出会いと別れが教えてくれた。そして、私もようやく今まで抱えてきた傷や感情を受けとめる準備が整って、器が大きくなっていったんだと思う。相変わらず、かなしいことや嫌なことはあるけれど、それさえも自分を愛するための人生の贈り物なんだと思えるようになった。むしろ、ネガティブとされる出来事のほうが、ほんとうの自分と向き合わせてくれるありがたい存在のような気がする。
彼との別れを経験し、「もっと自分を知りたい!」という気持ちがむくむくと湧き上がってきた。誰かの絵をみて歌をきいて心を動かされて「私もそういえば、絵をかくのも歌うのも好きだったな」と思い出して、休みの日に作品を作ってみようとわくわくしたり、とにかく五感を目一杯使って世界を楽しみたいとウキウキしている自分がいる。こんなに自分は感受性が強い人間だったのかと、新しい発見に胸を躍らせている。
「自分はどんな人間なんだろう」と自分を掘り下げる質問をして分析したり、自分を熟成させている人(落合陽一や宇多田ヒカル)に強く心惹かれている自分がいる。
そして、人の心理をもっと深く勉強したいと感じている自分がいる。
いろんな思いが一気に噴き出してきて、「こんなに感情に蓋をして生きていたのか」と驚かされる。きっと、一度に感情に向き合うと苦しくて生きていけないから、少しずつ身体にため込んでいたんだと思う。
よく頑張ったと自分を褒めてあげたい。そして、これからの自分もいっぱいいっぱい褒めたい。
大人と言われる結構いい年齢になって、ようやく自分自身を取り戻せた気がする。
これからもいろんなことがあると思うけれど、自分への贈り物だと感謝して受け入れていきたい。自分という意識をもっともっと、広げていきたい。