その後
すべては自動で起こっていて、自分たちは徹底的に受け身。
悟りのプロセスを深めて、しみじみと思うことは、幸福は特別なものではない、ということ。
どこかにゴールがあって、お金や地位や名誉や良い人間関係がいつか自分を幸せにしてくれる。
そんな風に思っていたけれど、それは間違いだった。
本当の幸福や安心感は、いまにある。
相手が攻撃的なことを言ってきたとしても、
「これは自分の中の受け入れられなかった部分が、愛や許しを求めている」
「宇宙の意志が現れているだけで、この人が意図的に私を傷つけようとしているわけではない」
そう自然に思えたら、たとえ周囲で何が起こっても平穏の中にいられる。
「一瞥体験をしても、起こることは変わらない。でも、物の見方が変わるから、世界が変わって見える」
引き寄せの法則などで少しでも現実をよくしようとしている人が、上記のことを知ったら、がっかりするかもしれない。
でも、物の見方が変わったら、自分を傷つける人にたいしても
「この人の痛みが少しでも癒されますように」
と願えたら、自分を困らせる人や傷つける人はいなくなる。
問題を問題と認識する自分が消えるので、問題そのものが消える。
昔あった嫌なことを思い出して、「あの人があの時こんなひどいことを言った」という思いがわいてきても
「いや、これはすでに記憶の中にあり、『いま』は起こっていないぞ」
「あの人も宇宙の意志によりその役を担っているだけで、悪い人ではないぞ」
「そもそも、この現実は五感が生んだ幻想だぞ」
と我に返ることができるようになる。
五感を感じると、いまと一緒にいれるようになる。
そして、最初から何も起こっていなかったことを知る。
むしろ自分を幸せにすると思っていた「思考・戦略・記憶」が、常に自分を比較の世界に置き、いまを否定し、自分を苦しめ続ける。
そこから抜け出したとき、
「自分を苦しめていたのは、自分だった」
ことを知り、やっと安心安全ないまにくつろぐことができる。
以下、会社で「自分と他人の境界線」が消えかけ、涙があふれそうになって、休憩時間慌ててトイレにかけこんで、泣きながらつづった文章。
自分も他人も目に映るものもすべて自分だったことを知り、仕事中も感謝の気持ちが湧き上がってきて、切ないような愛おしいような、自分は助かったんだという安心感のようなものがごちゃまぜになって、涙が止まらない。
最初から自分は救われていたんだと、安心感の中にずっといたんだと、ずっとずっと許されていたんだと。
どんな人も自分のためにいてくれていたんだと。
そんな人に自分はストーリー上とはいえ、なんてひどいことをしたんだと。
短時間の間にいろんな感情が渦巻いていた。
すべてが自分だとわかってから、世界が明るく見えた。キラキラ輝いているように見える。
そして、つらいことがあってもかなしいことがあっても全然泣けなかった自分が、やっぱり「すべてが自分」という感覚につつまれると、途端に涙してしまう不思議。
会社の休憩時間に泣きながらトイレにこもって、これまでの自分に感謝していた。
悟りって不思議だ。
「また自分はエゴにのまれて、この感覚を忘れてしまうかもしれない」
という思いが少しわきつつも、中野さんの7回目のセッションが終わってワンネスを感じてからは、嫌な感情に浸りそうになっても
「あ、これはストーリーだった」
「この人もストーリーにそって生きているだけなんだ」
と自然と切り替えられるようになった。
上記のことを思い出しながら、湯舟につかっていると、
「ほんとうに世界は自分の内側にしか存在しないんだな」
と感じる。
自分が生きているように、他人にも意識があるとどうして思っていたんだろう。
意識が先にあるのに、性別や名前などでどうして自分をラベリングし分離しつづけていたんだろう。
振り返ると不思議なことばかりだ。