自由意志という愛
人間は頭で6万回独り言を言っているらしい。
そして、その独り言もどこから降ってくるのか分からないまま、影響を受け、行動している。
人の性格というものは、そのとき目にしたその人の言動の一部分を切り取って、切り貼りした決めつけに過ぎない。
そう考えるのならば、自分や他人という境界線はないのではないか。
毎日思考6万回のプールにダイブして、水遊びをしているに過ぎない。
他者の自分に対する評価も、その人にいま降りかかった思考が反映されているに過ぎない。
その人の意志でそれを言っているわけではない。
ただ、思考のプールの水をすくって、こちらに投げつけたに過ぎない。
許せないと思っていたあの人とまったく同じ人生を歩んでいたら、自分もまったく同じ行動をとっただろう。なぜなら、まったく同じように思考の波がこちらにやってくるからだ。その人はその役割をただ担ったに過ぎない。
違う視点で語るのならば、人を傷つける人は自分が一番傷ついている。一番愛情を、許されることを求めている。
好き嫌いさえも、わたしたちは自分で決めていない。
そのときどこからか湧いた思考や感情に左右されているだけだ。
しかしながら、それすらも達観した愛は、すべてを包み込む。
そのとき、はじめてわたしたちは、「自由意志」に触れる。
ただそれすらも、そこにたどり着く瞬間も、ずっとずっと前にすでに描かれていたんだ。