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暮らしだより 八頭町「岡崎ファーム」

*この記事は2022年9月12日にyoutubeキツネラジオにて放送したものです。

中尾:
今日は東京から鳥取県八頭郡にお嫁に来た、NPOちんじゅの森の理事をしてくださっている岡崎萌生ちゃんにお話を伺います。
 
岡崎萌生:
こんにちは。岡崎萌生です。よろしくお願いします。
 
中尾:
萌生ちゃんは東京で生まれ育ったんですよね?
 
岡崎萌生:
そうです。東京の調布市で生まれて、大学までいました。
 
中尾:
私が初めて萌ちゃんにお会いしたのは、2012年の春でした。
就職というか、もう数日後に鳥取にいくことが決まっていたんですよね。
 
岡崎萌生:
はい。ちょうど10年前です。
 
澁澤:
私のね、東京農業大学の後輩なんです。
 
岡崎萌生:
そうなんです。もともとはアフリカとかに行って海外支援をしたいというのが農大に入ったきっかけなんですけど。
 
中尾:
にもかかわらず、鳥取を選んだのはなぜですか?
 
岡崎萌生:
きっかけは東日本大震災があって、自分にできることを当時いろんな人が考えたと思うんですけど、私自身も日本の中で自分の身近な人を守りたいと強く思って、それで何ができるかと考えた時に、西日本でパイプ作りをしたかったというか、何かあった時に助け合える関係づくりをしたくて、西日本には知り合いもいなかったので、そこに飛び込んで開拓してみたいと思いました。
あとは、本当に田舎に住めるのかということも自分自身体験してみないと、「あっ無理だ!」と思う場合もあるじゃないですか…なので、実際に住んでみたかったということもあります。それから、自然は大事だとか、守らなければいけないとか頭にはあるのですが、今までの生活の中で自然の中で生かされている感覚とか水が大事とか言うけど、本当に本心から水が大事だと思っているかというとわからなくて、今一番若い時に感じられる感性で、田舎の自然とか人とかに触れあって、感じられるものを感じたいというか確認したいというか、そういう気持ちがあって探していた時に見つかったのが鳥取県で、「田舎で働き隊」で来ました。
 
中尾:
鳥取に初めて移住してきて、こっちで暮らしてみると、東京とは全然違ったみたいでしたよね。自分が変わるきっかけになったことってありますか?
 
岡崎萌生:
はじめに智頭町に来た時、台風が来るっていう時に、私が働かせてもらっていた「みたき園」という場所は、外で山菜料理を提供するお店なので、台風でお休みになるんですね。なので、その間私は家にいて両親にお手紙書いたりしていたんですけど、次の日におばあちゃんたちが「萌ちゃん昨日は大丈夫だったかい?私はいつ警報が出て非難しなきゃいけないかと思って長靴だして構えとった」って言ったときに、私は何も準備してなかったなと思いました(苦笑)。
本当に都会育ちでマンションの中でかなり守られた状況の中で育ったんだなと改めて感じました。
その翌日も、みたき園は山の奥にあるので、次の日の仕事というのが、濁流で流れてきた流木を拾い集めて燃やすのです。みたき園という飲食店での仕事だったので、それも衝撃でした。ご飯の提供だけじゃなくて、木をどかしたり、こういう中で生かされているんだというのを肌で感じられたのは大きかったです。
特に、そこの地元のおじいさんやおばあさんはまるで山の声を代弁しているかのように話をしてくれるのが面白かった…というか、感動もしましたし、こういう人たちに聞いたら、自然の声がわかるんだと思って、次は、そこに農業の勉強をしに行くのではなく、地元のおじいさんおばあさんの話をきいたり、そういうことができるステップに進みたいなと思いました。
 
中尾:
カッコイイと思ったのね。
 
岡崎萌生:
そう、とっても背中がカッコ良かった。
 
中尾:
自分もそれに近づきたいと思ったのかな?
 
岡崎萌生:
その時はまだ何も知らなくて、東京の暮らしがベースだったので、世の中には薪でご飯炊いたりとか、お風呂沸かしたりとか、まだこんな暮らしをしている人がいるんだとびっくりしたんですけど、実は日本の国土で見ると、大半はそうなんだなと気づいて、今までどれだけ小さいとこで育ったかというのがなんか狭かったなあと思いました。
 
中尾:
澁澤さんもそうでしたよね。
 
澁澤:
そう。都会にいると、生活というのは、今、萌ちゃんが言ったように、コンビニに行けばモノがある。安心な環境に住んでいるということを前提の上でどうやって生きていくかということを問われると思っているのだけど、その前提の部分の足の底が抜けたというのかな、ちゃんと地面に足を降ろして生きていくということができて初めて農業というものができるんだということに気づいていく。その気づいていく過程が楽しくてしょうがないんですよ。僕の場合もそうだった。
 
中尾:
それで、一回八頭に萌ちゃんが渋沢さんを講演で呼んでくださったのよね。その時印象的だったのは、「農業」を「農的生活」と言ってくれてほっとしたって言ってました。それはずいぶん違いますか?
 
岡崎萌生:
それは違うと思いますね。
 
澁澤:
暮らしている人にとって、農的な暮らしは当たり前のことなので、そんなことをやりたかったの?あなたは農業やってお金を儲けることをしたかったんじゃないの?って、受け入れ側はきょとんとしちゃう。だけど、都会の学生からみると自然の中で、食べ物をつくったり採ったりしながら暮らす、というのはカルチャーショックなんですよ。
 
岡崎萌生:
はい。まさにカルチャーショックの連続でした(笑)
 
澁澤:
発展途上国でも同じことなんですよね。
 
中尾:
なるほど。それから、段々ここで暮らしたいな、生きていきたいなっていう心境に変わっていったのかな。
 
岡崎萌生:
そうですね。感覚から変えたかったですね。
 
中尾:
その意気込みはね、最初にお米をいただいたときに感じました。
「はじめてつくったお米です」って言って送ってくださったときに、「80歳までお米を作ってもあと60回も作れないんです」って言ったの。その言葉はすごく響きました。
 
岡崎萌生:
時間の感覚が変わったんだと思います。
 
中尾:
一年一年がいつも大事なんだ。失敗はできないんだということをすごく感じたの。あの時のお米はものすごくありがたく頂きました。
 
澁澤:
毎年違うんですよ、気候は。春夏秋冬なんですけど、それでも雨が少ない夏があったり、雨ばっかりの夏だったり。その中でぎりぎりにお米を実らせていく。しかもお米というのは、その作物だけを実らせれば良いのではなくて、その作物の子供なんですよね、お米って。要するに稲の子供がお米ですから、その作物を育てて、ちゃんと子供を産ませてあげるところまでやるというのは結構真剣勝負なんですよ。
 
中尾:
なるほど。稲の妻が稲妻だしね。それがあるとちゃんと育つって言いますもんね。
 
澁澤:
子どもを育てるのと一緒ですね。
 
岡崎萌生:
私はその当時はまだ子供がいなかったのですが、稲が病気になったんですよ、最初の年に。だけど農薬を使いたくなくて、いろんな手段を見ながら、ずっと心配で気にしていないといけなかったので、子育てもこんな感じなのかなってイネに教わりました。
 
中尾:
そして、お嫁に来るのよね。嫁入りの日はそれまで暮らしていた家で支度をして、そばで暮らしていた周りのおばあちゃんたちがみんなで見送ってくれたのよね。
 
岡崎萌生:
智頭の後に八頭町にお嫁に行って12件ほどの集落に入ってそこで今度は活動させていただくんですけど…
 
澁澤:
智頭町と八頭町って言っても聴かれている人はわからないと思います。隣同士の町で、文化は違うけど、行こうと思えばいつでも行ける距離ですよね。
 
中尾:
行こうと思えば行ける距離なのに、おばあちゃんたちは泣いてくれたのよね(笑)
 
岡崎萌生:
あ、そうですね。今の嫁ぎ先からは車で10分くらいですかね(笑)
 
中尾:
そうなんだ(笑)
それで、結婚してここに根を生やすぞと決めたきっかけは何ですか?
 
岡崎萌生:
一つは、旦那さんに会えたことは大きかったです。
彼がいいなと思ったのは、姫蛍が八頭町にいるところがあって、そこに行ったときに、真っ暗なところに米粒くらいの蛍がちかちか光るんですけど、彼はそれを見て「あー、これは勝ち組だな」って言ったんですよ。「勝ち組ってそんなときに使うんだっけ?」と思ったんですけど、それを勝ち組だと思える感性がすごく魅力だなと思って、そういう感性をずっと大事にしながら、子育てもすべて一緒にやっていけたらいいなと思いました。
 
中尾:
二つ目は、彼のおじいちゃんですね。
 
岡崎萌生:
はい。4代目の柿農家ですけど、前の代が100歳くらいの年齢で最後は101歳まで畑に出ましたけど、そのおじいさんの後を継ぐと決心した彼がすごいなと思いました。まっすぐでしたし、間違いなく頑張ってやる人だなと思いました。
 
中尾:
この人と二人で継げたらとっても良いねと思ったんだよね。
 
岡崎萌生:
はい!
 
澁澤:
僕たちの暮らしはね、明日のことさえわからないじゃないですか。
果樹農家ってね、林業もそうかもしれませんけど、100年の木があるんですよ。それを誰が植えたかもみんな知っているんですよ。100年の過去は、それは100年の未来も見えるということなんです。
100年の単位で暮らしを成り立たせていけるという豊かさって、うらやましいと思います。
 
中尾:
まだまだお話伺いたいんだけど、もえちゃんとお話しているとあっという間ですね。
次回はご主人の岡崎昭都さんをお迎えして続きを伺います。
ありがとうございました。

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