鎌倉殿の13人からみる武家の世の中
「鎌倉殿の13人、見ておるかな?三谷さんらしい、ユーモアとウィットに富んだ脚本で、楽しいよなぁ。」
「見てます。聞いてます。録画して、3回ずつ見てます。」
「そこまで見なくてもええけどな、だいたい、ネタバレるともう、エエやろってなるところもあるから、なー!あの人の脚本。」
「お話らしいお話で、歴史物も、ある程度、フィクショナライズしておいてくれないと、ねー!妙に、信じて、文句言う人も増えてきてるし。」
「昔は、もののよくわかった大人は、そういうものだとわかっていて、流していたんじゃけどなー!」
「しかし、源平合戦とはいうものの、関東武士って、別に、平氏、特に、桓武平氏も多いですよね???」
「そうじゃな、源氏も、関東だけでなく、九州や東北、それに、中四国にもおる。島津氏など、鎌倉以来の源氏の名家として名高く、江戸期だけでなく、現代でも、ご子孫が存命じゃな。」
「文化は周辺に残りますね。東北や九州には、出自のはっきりした名家のご子孫が結構、まだまだ、残っておるな。」
「北条氏も、実は、平家ですよね???」
「そうじゃよ、ま、かなり前に、関東に土着しているから、系図はあてにならんかも?じゃけど、な。」
「平家と源氏って、元々は、〇〇天皇の子孫で、臣下に降下した人たちですよね。なんで、仲悪いんですか?」
「源氏と平家が仲悪いってより、兄弟、叔父甥などが、主に土地の権利を巡って争い、上から下まで、争いが広がった挙句、どちらかがどちらかについて、争ったのが始まりじゃな。」
「土地の私有権が認められたのが、そもそもの始まりなんですね。」
「そうそう、墾田永年私財法というものが奈良時代中期に作られて、な。開墾領主に土地の私有を認めたんじゃな!」
「そうすると、ご主人が死ぬと、誰が跡目を次ぐかで揉める。」
「そいうことじゃ、それが、上から下まで、平安末期には、社会的な大問題になった!」
「保元の乱、平治の乱って、教科書風に見ていくと、どちらにも、天皇、上皇を始め、藤原氏も割れているし、平家も源氏も並んでいますね、確かに。」
「平治の乱では、平清盛と源義朝が争ったわけじゃな。それで、平清盛が勝った、ということになっているな。それは事実ではあるが、その上に、藤原氏や京都の貴族、そして、天皇家、上皇家も割れて、どっちに乗るか?的なことになっているんじゃよな、ほんとは。」
「ふーん、なんで、源平合戦ってことになっているんですか?」
「争いに、天皇家、上皇家が主導的に関わっているとはかけなかった時代が長いからかな、と妾は思うておる。」
「なる・・・・。下々のものが争っただけになっていた時代が長いんですねー!」
「なので、北条氏は田舎の在地武士だが、平氏を名乗っている事は、あんまり強調されてこなかった。」
「そうなんじゃよな、本当は、京都の貴族文化にどっぷりの文化人的な人たち、この人たちは、田舎から上がってくるものやお金をなんだか、当たり前のように思っていて、雛をバカにしている人たちじゃよな、それと、墾田永年私財法以来、田舎に落ちて、開墾領主になったり、国司を遙任して、そのまま在地領主になって、雛で”一所懸命”として、土地にへばり付いて生きている人たちの意識の違いが本当は大きいんじゃよな。」
「なるほど、保元の乱、の頃は、平家も源氏も、どちらかというと、開墾領主の側に立っている人たちの大いなるものであったのだが、平治の乱に勝った平清盛は、もともと河内や近畿圏に地盤があったこともあり、京都で貴族化してしまった!」
「なので、関東に島流しになってきた、源義朝の御落胤、頼朝、を担ぐ形で、貴族文化に染まって、上部構造だけに意識がいってしまった連中からは、田舎者は離反していくものが相次いだ!特に、関東では、その傾向が強かったってことじゃな。」
「ま、それはそうですよね、京都で、『蝶よ花よ』と暮らしている連中は、なんで飯食ってるかというと、田舎者が汗水たらして、作った作物を税として、徴収しているその一点にかかっているわけで、近畿圏の連中はともかく、広大な関東平野で牛や馬と駆け回って、作物を実際に作っている連中は、馬鹿馬鹿しくてやっとレンは!ってなるんですね。」
「特に、墾田永年私財法は、私有を認めておきながら、荘園だのなんだのとうるさくタカってくるわけで、な。」
「だが、特に、戦前は、天皇家が争いの火元になっているとか、かけないわけですね。」
「そうそう、だから、源氏と平家の争いにした。それは、もっと前の時代から、そうなんじゃよ。」
「アンタッチャブルなところなんですね。」
「その対立構造は、ずっと実は続く。太平記の鎌倉末期。平安末期は、あんなに現実的に立ち回った義時、政子の北条氏が、すっかり京都の貴族化してしまって、今度は、北条氏がいやらしく天井眉を描いて、君臨し、京都的な貴族化していって、足利、新田、斯波、といった源氏の棟梁がまた担がれることになる。」
「実際、太平記は、大河になったこともありますが、北条氏の最後の執権など、本当にいやらしい奴に描かれてましたね!」
「で、そこに、後醍醐天皇っていう人が乗ったんじゃな、この対立を利用して、天皇親政を実現してやろうと!な。」
「それはしかし、無理がありますよね。」
「そうなんじゃ、北条氏を倒した後、やはり、無理がはっきりと現れる。つまり、後醍醐天皇って方は、北条氏よりも、もっと田舎者の開墾領主のことなんか、一ミリも考えてなかったとバレていく。」
「それで、足利尊氏は、これじゃダメだ、特に、関東の在地領主クラスの大いなるものたちは、抑えられない!って気がつき、後醍醐から、離反する。」
「じゃあ、室町幕府なんての、なんで、京都で開くんですか?」
「尊氏は、はっきりと後醍醐を倒して、京都は制圧して、関東、ま、この時期なら鎌倉じゃが、そこで、幕府を開きたかったじゃろうな。」
「なんでそうしなかったんですか?」
「後醍醐天皇ってのは、その頃の天皇としては珍しく本当に構想力や展開力、そして、実現のための実行力など、全部ある人じゃったんじゃよな。だから、すぐには諦めないで吉野に逃げたり、尊氏が京都を留守にすると、尊氏派を掃討して、一時、京都を占領したりしている。」
「なるほど、離れたいけど、離れられなかったんですね。」
「そういうことじゃな。で、自分の弟や息子のうち、末っ子のようなのを鎌倉府に派遣して、鎌倉公方ー関東管領なんてのを作って、関東は関東で収めることにした。」
「それ、あかんでしょ!揉めるモトですね。」
「実際、室町期てのは、もめ続ける。京都は、南北朝なんてのが、100年くらい続くし、それがとにかく落ち着いても、数十年後には、応仁の乱とかなって、戦国期に突入!」
「実は、鎌倉での頼朝の夢は、ずっと叶うことなく、戦国期を経て、も、信長、秀吉はどちらも、京都近郊に拠点を置いたせいで、うまく機能しないんじゃよ。というか、彼ら問題の本質に気がついていないな。家康は子供の頃から、織田と今川の間で人質としてたらい回しにされたり、そもそも地下(じげ)の出身の家康は、だんだんと物事の本質に気がついて行ったと考えると合点が行く。」
「在地領主クラスは、自分たちの権利をきちんと認める王を担ぎたい!」
「京都の政権ってのは、それは認めないんじゃよな。なんか、彼らを税金を納めるだけのただの道具のように扱って顧みない。」
「家康が征夷大将軍となって、武家諸法度、禁中並公家諸法度というものを、天海や金地院崇伝、本多正信などと合議で決めて、現世の具体的な権力は、完全に京都の政権から奪い取るまで続いた、という風に見れるな。」
「なるほど、征夷大将軍として、本当に、武士たちの棟梁として、OKもらえたんですね。」
「ま、な!」
「でな、北条氏が平氏であったことは、以後、ずっと引き継がれて行く。伊勢氏は、桓武平氏であり、足利氏(源氏の棟梁)の室町幕府では、政所執事として、代々支え、一族で将軍やその近親者、および、管領(鎌倉期の執権に当たる)などへの”申次衆”を寡占し、権力基盤としていた。そこから別れた伊勢新九郎というものが、関東に渡って、伊豆から、小田原と抑え、関東の覇王となって行くときに、伊勢氏は管領の家、そして、桓武天皇からの降下だから、北条とは親戚だ!ということで、北条早雲を名乗ることになる。」
「なるほど、室町も時代が降って、戦国初期となると、むしろ北条を名乗ることが関東の在地武士集団を集めて、一致団結させるのに都合がよかったんですね。」
「もっとも、早雲一代では、北条を名乗った形跡はないそうじゃよ。ただ、
『我は古の北条氏の末で、関東のモノノフどもを救うために、こうして下向した!』
とは言っておったようじゃが・・・。」
「その後、息子の氏綱、孫の氏康の頃に、完全に北条氏として、定着して行く。”源氏の補佐筆頭は平家”という、関東在地の慣例にうまくすり寄って乗って行くのが得策とな、思ったんじゃろな。」
「室町期の関東管領は、上杉氏じゃが、これは、藤原氏を名乗っているが、京都の本家(藤原北家の嫡流)からみると地下人(じげびと)にも等しく、早雲の伊勢家としては、はっきりと、北条を名乗ると、頼朝の執権の家のものか!っとなって、田舎武士には、響きが良かったんですね!」
「関東の武士団(というのは、在地の土地の開墾領主の末裔じゃから、)は、在地のことは在地で決めたい、ってずっと願ってきているんじゃな。が、実際は、相続などの揉め事は、自分たちとは出自の違う、京都の貴種に公平、公正に裁判して、決めてほしい。在地の武士団だけでは、当主の死後、二つに割れて、ひどい時は殺し合いになる、っていうジレンマをずっと抱えて生きている。」
「で、まあ、室町末期は、当時、鎌倉府は、伊豆と古河(こが)に別れていて、関東の”足利氏ー上杉氏”も二つに別れていて、これが、関東の在地武士集団の上に乗っかる形で支配をしているんじゃな。これはやはり手強かったがのう。在地は在地で、象徴的な意味で”京都化”してる!」
「伊豆公方ー伊豆管領を滅ぼして、小田原に本拠を移しても、古河の公方ー管領家の抵抗はものすごかった!?」
「実際、例えば、山内上杉の上杉憲政などグダグダじゃが、有名な江戸古城の太田道灌を家老に持っておるのに、謀反を疑って、入浴中に刺殺したりして、その後、越後に落ちて、家臣の長尾氏に家督を譲るまで、なんだかんだと続きますね。」
「その長尾景虎ってのが、上杉謙信で、後北条氏ばかりでなく、源氏の、北陸の朝倉、駿河の今川、甲斐の武田などと争うことになる。」
「繋がっているんですね。」
「繋がっているな。」
「京都に見切りをつけて、関東に降った早雲も、関東は関東で独自に京都化していて、うんざりじゃったろうが、丁寧に、関東で独自の武家(つまり、在地領主連合)の、武家による、武家のための政治を目指した。」
「ま、京都の公家というのは、近畿圏の土地そのものというよりは、その中央集権的な政治のあり方を指している。京都の土地自体が悪いわけではないよ。室町末期では、鎌倉も、伊豆も、古河も同じような意味で、象徴的に”京都化”していたんじゃなぁ。。。。。。」
「なので、結局、家康の登場まで、在地武士団は、不満を抱え続けることになる。」
「だから、室町期ってのは、ものすごく、不安定なんじゃよな。それに、尊氏の足利家っていうのは、源氏の棟梁としては、もともとの家柄として、トップというわけではないんじゃよな。」
「ふーん。」
「例えば、斯波氏などの方が家格はずっと上じゃ。だから、斯波氏には、日本のど真ん中、越、北陸から、近江、美濃、尾張、東海地方を惜しげも無く、あげている。あげているというか、斯波の棟梁に『お前、誰のおかげと思うているのか?』と言われたら、尊氏は、逆らえなかったんじゃないかな?」
「戦国期には、朝倉、浅井、六角、京極、織田、今川、土岐など、元は斯波の家臣などであった連中がボロボロと虫食いのように下克上していくことになる。」
「尊氏は、後醍醐の挙兵にいち早く乗ったというのが成功の元だったんですね、でも、落ち着いてみると、自分よりもともとえらい連中が結構いて、論功行賞では、気前よく分けていくしかなかった。」
「そうそう、それで、直轄地がほとんどなく、義満の頃に、義満は、コメは入ってこないから、明に朝貢して、その返礼品で、幕府の諸々を賄った。」
「ふむ、そしてその財力をもとに、後醍醐の末裔は説き伏せて、皇統も一つに戻した。」
「この辺も、お話にはなりにくいですね。」
「だから、お話になってない。」
「トンチ小坊主一休さんぐらいですかね?」
「あれも、一休さんのお父さんは、南朝系の天皇であることは、仄めかし程度にしか、出てこないよな。で、義満もトンチで言い負かされて、マイったしたりしてる。」
「なるほど、歴史的には、そうしておく方が無難なんですね。現実家の義満らしいな。」
「お話としても無難なんじゃ!」
「南北朝をまともに扱うお話ってのはないんじゃよ、これは、どう書いても不敬になる。」
「なるほどなぁー!?」
「ま、そういうわけで、頼朝の夢と尊氏の失敗から、しっかり学んで、戦国期を着実に乗り切った家康の江戸幕府ってのは、本当にうまくできていて、以後270年近く、平穏な時を過ごせることになる。」
「封建制ってのは、ある意味、平和なんですね。」
「在地の領主クラスには、物凄く、暮らしやすい。」
「ふむ、なんか、残念ですがね。」
「ま、しかしな。家康は、歴史の表も裏も慎重に学び、そして、博学な天海僧正とか、金地院崇伝のようなものを重用して、慎重に制度を作っていくのじゃな!明治維新は、天皇親政の中央集権化を目指したが、家康の苦労して成した知恵の集大成を捨ててしまったな。これが、昭和になって、軍部の独走などを招く遠因になる。」
「なるほど、平安末期や鎌倉末期のことは、下々の揉め事で、天皇家は関係ない、アンタッチャブルであったという風にしておきたい、という気持ちがずっとどこかにあるから、お話として、源平合戦とか太平記みたいになるんですね。」
「それはその頃の記録を書いていた連中からして、もう、そうなんじゃと思う。で、現実的にも、天皇家というのを、神社の神主たちのさらにその首長としておいて、ことあるごとに、祝詞でもあげさせておけば良い!というのは、家康とその側近たちの、日本国を統治して行く上での、高度な知恵なんじゃよな。うまい!」
「しかし、それはそれとして、少し翻って、社会構造に視点を移すと、そういった構造は、現代でもあるんじゃないんですか?つまり、天皇家どうこうはともかく、上部構造だけしか見てない人たちと、田舎で土を引っ掻いて、実際にものを作っている人たちの間の乖離はずっとありますよね。」
「そうなんじゃよな、そして、実際的な現実的な力を、底力として発揮して、現実の政治を動かすのは、田舎の在地領主クラスなんじゃよ。彼らは、うわべだけの綺麗なお話では動かない。」
「なるほど、身につまされる部分もありますね。」
「地に足がついた勢力として、在地領主クラスにきちんと訴えられえる現実的な政策を打ち出していかないと、政権は取れないと思うぞよ。」
「上部構造を担う連中ってのは、実は、下部構造はなんでもいいんですよね。自分では、コメの一粒も作っているわけでは無くて、だから、桂米朝さんくらい世代の人は、そういう戒めをよく、口にしてはったな。」
「だから、今、リベラル系は、なかなかうまくいかないんじゃろな。」
「平和、平和と念仏のように唱えていれば、本当に平和が実現するなんて、在地領主のようなクラスの現実的なおじさま方は、一ミリも信じない!」
「ま、そういうことじゃな。残念だけど。」
「思想なんて、彼らから見れば、共産主義でも、イワシの頭でも、猿のケツでもいいんじゃ。」
「それは、中国の庶民ていうか、普通に暮らしている平民がそうですよね。」
「あ、そうそう、彼ら、そうなんじゃよな、中国人てのは、ものすごく現実的なんじゃよな。」
「中国の普通の人たちと日常的に付き合ってみると、自分たちがうまく暮らせることなら、なんでもいいって思っているのがすごく、よくわかることが多い。」
「まあ、歴史に学ぶべきは本当は、そういうことじゃな。」
「なるほど。」
「ま、ということで、今日のお話はおしまいじゃよ!」