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古代に想いを馳せる日!の感想文

「姫は、邪馬台国は何処だと思っているんですか?」

「妾、ちょうどその辺りは、詳しくはないけど、邪馬台国というもの自身は、北九州、博多、那の津を中心とした豪族連合の内、大きな力を持ったものだったように思うぞ。」

「しかし、畿内、特に、飛鳥周辺には、纏向の遺跡や箸墓古墳、その他にも、いろいろ前方後円墳がありますよね!w」

「うーん、大和朝廷の原型は、畿内からだと思うけど、その前に、力があった豪族連合体は、いくつかあったんだと思う。例えば、出雲、ここには、妻木晩田遺跡などが見つかっているね!そしてね、今の兵庫県や京都府の北側から、北陸、越辺り、北日本の日本海側までの地域、ここは、天皇家の始祖がいたと思っているんだけどね!」

「あとは、南九州のハヤトや中国地方、四国地方の瀬戸内地域あたりですかね!?これらは、また、元々は別勢力!?!?それはそうですよねぇ!」

「東日本は、遅れて島に渡って来た連中がいろいろいたと思うけど、それなりにまとまった武力を持った集団は、北陸、越地域の現天皇家の始祖の分家一族で、元々は韓半島の任那や新羅系伽耶地域の両方を抑えた”海賊”のような連中だったと思うよ。」

「それらが、糸魚川遡って諏訪あたり、諏訪には大きな淡水湖があり、ここでは割と大きな集団が暮らせただろうね!そして尾張かな。諏訪から東に向かった連中と、尾張経由で東に向かった連中は、関東平野でまた出会った気がするね!で、鹿島あたりで定住する!」

「鹿島神宮がでかいのはそのせいかな?」

「そうそうもともと海の民で、太平洋を見たときは心が踊ったかもね?!?」

「千葉には、”蘇我”がありますし、長野の志賀高原とか、滋賀県とか、ソガ、シガ、スガなどは、皆、音韻的には同根でもおかしくないんですよねwww」

「”ソガ”の一族は海賊業者だね、どう見ても!越や北陸、京都府や兵庫の北あたりと韓半島南東沿岸部を拠点の海賊だったと思う。」

「蘇我系の祖先や祭神は、確かに”海”と関係してますよね!住吉神社はもとよりですが、天皇家と関係の深い、熱田神宮、伊勢神宮、鹿島神宮。諏訪は海ではないけど、でかい湖(諏訪湖)、そして、滋賀県の真ん中に琵琶湖、ですか!?!?内陸の大きな淡水湖は、神の大きな恵みに思えただろうね!これは大人数を養うには欠かせないものだ!」

「蘇我系の大人物として、後には天武天皇が出るけど、これは幼名が大海人皇子だな!」

「彼は壬申の乱で、吉野から鈴鹿を超えて、尾張に逃げて、軍勢を整えますね!そのとき、尾張、息長氏系の豪族が力を貸しているけど、彼等がもともとのソガの一族とかなり近しいんでしょうかね???もしくは、それそのものかな!?」

「そうだと思う。それに対して、中大兄皇子(後の天智天皇)は、北九州から西日本系の代表で、百済王家の末、豊璋である藤原鎌足とツルんで、クーデターを起こしたのが、大化の改新(乙巳の変)だと思うぞ!これは、神功の”三韓征伐”以来の西日本派の巻き返しでもあったと思う。」

「持統女帝は、天智の娘で天武の妻だが、腹心が藤原不比等ですね!」

「そうなんだよ、持統は日本書紀の編纂に乗り出すが、具体的な指示は不比等から出ているように思うでしょ。で、古代からの歴史の内、この蘇我系の王家の来歴や業績は適当に神話にすると同時に、いろいろ隠したり、ごまかしたりした!始祖の神武と応神は同一人物だと推定されているけど、神話化したものは、メッチャ古くしないといけないんで、そのためにもともと一人の人物を二人に分けて、神武というのを創造したんだろうね!これは、中国古代王朝の歴史書でも良くある方法で、流石に百済王家の末裔の藤原不比等は、このような歴史書を残すことの大きな意味と熟(こな)れた手法をよく理解しているね。」

「確かに、いろいろ不思議なことが多いですね!日本書紀も古事記も!www」

「出雲の謎もそうだよね!妾の感想では、出雲の勢力ってのは、独立でむしろ百済系だった気がするんだよね!」

「どうしてですか?」

「製鉄業が得意芸(ワザ)で、巨大な鉄火場で鉄製の武器も自家生産するような進んだ科学技術を持っていて、ソガ一族とは、一線を画していた気がする。百済とも新羅とも、もちろん、倭とも、貿易しただろうけど、どっちかていうと、百済系かな?っと。(時代的には三韓の頃だから、馬韓と辰韓なら、馬韓!)」

「なるほど、越から北陸、京都兵庫北部あたりの勢力で、韓半島南東部も抑えていて、海賊やってるソガ一族から見ると、眼の上の巨大な”たんこぶ”ですね!海賊業の邪魔になること甚だしい!」

「ウザかっただろうね!しかし、鉄の武器をたくさん持っていて、百済もバックにいるとなるとそう簡単には潰せないね。」

「なんるほど、山陽地域や石見地方などをまず取って、そんな風にだんだん包囲網を狭めて、最後にスサノオだかあたりを派遣して、『お前ら、もう無理だろ?ここいらあたりはもうヤマトに譲れ!』って言ったんだろうね!」

「スサノオは、アマテラスの弟だけど、暴れん坊でちょうどいいと思ったらしいけどね。しかし、出雲は、百済風の先進地域だったと考えると、その後のわけのわからん状態も納得が行く!韓半島ってのは、古代の早くから、漢王朝風に文明化したのは、北西部なんだよね!漢王朝は、楽浪郡や帯方郡を置いて直轄したし、ね!今の平壌は、楽浪郡地域にあるね。いまでも、ソウルがあんな危ないところにあるのも、韓半島の人たちってのは、やっぱり、北西部が都会、南東に行くほど田舎で野蛮!ってのが刷り込まれているからって言われたりしているんだね。」

「ああ、で、確か、スサノオは、出雲で歓待を受け、籠絡され、櫛名田比売(クシナダヒメ)を娶ったりしているね!」

「ヤマタノオロチを倒してね!」

「出雲の近所の敵まで倒してあげたんですね!」

「出雲は万歳(マンセー)だね!」

「アマテラスは、『あの子はバカだとは知ってたけど、あそこまで真のガチバカだったとは・・・。何しに行かせたと思っとんじゃい!本当に、もうまじバカだね!ハニトラにかかった挙句、向うの敵まで倒してあげたりして!』って感じで、叱責の使いをもう一度、出雲に送ったりしてるね!スサノオは、『ねーちゃん、ゴメン。でも、ここは、スッゲーいいんだよ。酒はうまいし、ねーちゃんは綺麗だ!(♫おらは死んじまっただーー!♪』」

「しかし、出雲は、当時、列島の1、2を争う先進地帯だったと考えると、わからんでもない。博多と並んで、目も眩むようなバカでかい宮殿に、珍かなご馳走があり、クシナダヒメも綺麗だったんだろうね!」

「女は都市で暮らすと、化けますよね!wwwwwwww」

「ああーーん、お前、妾に何か言いたいことがあるんか?喧嘩売ってんのか?やんのか、お!おら?」

「めっそうもないですよ!姫は、田舎でも綺麗で可愛いです!」

「田舎娘と馬鹿にしたか?!?」

「誰が何処にそんなこと書いているんですか!?だいたい、いま姫、妖精じゃないですか!?!?」

「ふん、でな、なんとかかんとか、出雲をソガ王国の版図に組み入れた大和朝廷の原型は、その出雲一族のうち大いなるものを物部氏として、大連(おおむらじ)という待遇で迎えているね!物部氏の”物”と出雲の大物主神(ミコト)の”物”は偶然の一致ではないと思うね!そして、この”モノ”は、ズバリ鉄のことでしょう!鉄を扱う本省の長官として、物部氏を大連として、迎えた!」

「大伴氏も大連ですね!なるほど、で、百済系か!出雲方面からきたのかもしれませんね!」

「大伴氏(後の伴氏)は、平安まで生き残ってるよね(応天門の変で、駆逐される)これは、百済系だったからかもね!?!???」

「で、本体、天皇家とほぼ一体の蘇我本宗家は、大臣(おおおみ)です。これらの違いはそういうことではないのかなぁ?」

「大伴金村の”任那4県割譲事件”とか、唐突に出てくるけど、ソガが、任那や新羅系伽耶、そして、北陸、越あたりが基盤とする豪族あがりとして、大伴氏は、百済系の出雲方面出身者だとすると、背景が類推できるでしょ!w」

「なるほど、大伴氏は、出雲系の貴族だったけど、出雲が降ったとき、ソガ王国(大和朝廷)に大連として迎えられ、仕えたが、元の影の親分、百済にもいい顔しときたいんで、どさくさに紛れて、見返りもらって、任那の西の方の4県を百済に差し出したりしたんかな?ってね。」

「そうそう、いろいろ唐突な事件が日本書紀に出てくるけど、背景を自分なりに考えて、豪族の出自を類推すると面白いぞ!www」

「で、やっぱ最後に残った敵が博多周辺の国々だったというわけか!」

「これは、卑弥呼が統治しているときは、盤石だったみたいだね!」

「が、死後、おかしくなる。半島からも、馬韓や辰韓あたりからも、それぞれ付き合いのある国を通じて、勢力争いしたんだろうね!」

「そこで、大和朝廷から神功皇后と武内宿禰が派遣される!神功皇后の”三韓征伐”ね!実際は、近畿の朝廷と北九州連合の争いだったと思えば、わかりやすい!実際、馬韓・辰韓・弁韓の諸国も入り乱れて争っていたんだろうね!」

「神功は、仲哀天皇の妻だったが、仲哀はこの遠征時に都で崩御している。その後、神功は、”武内宿禰と夫婦の営みを行った”と、ここだけ、妙に詳しく書いているね!>日本書紀」

「その子が、神武ですよね!」

「ソガ系の神の子ね!しかし、『これは不義の子だったんだよ、もとからそんなに清く正しい存在ではないんだよねー』って、蘇我本宗家を滅ぼした藤原不比等は、なにげに書いているんだね!」

「芸がこまかいっていうか、セコいっていうか・・・・・・。しかし、まあ、蘇我なんて滅ぼされて当然なんだって、そこいら中に、入れておきたいんでしょうね!wwwwwwww」

「しかし、この神武も、なんか博多の方がいいや!酒はうまいし、ねーちゃ(略・・・・(爆」

「これが、”神武東征”の原因だね!神武も、博多に居着いて、大和に帰って来なかった時期が長いんだろね!」

「不義の子だしね。ヤマトはヤマトで、なんか神武はよくわからん子だし、今更、皇子ズラされてもって!なったんかな???」

「しかし、神武はヤマトへ帰る決断をした!むしろ、ヤマトの勢力に責められ、攻めてこられたのかもしれんね!」

「そうそう、いったん、南九州に落ちて、それから、隼人を連れたりして、ヤマトへ帰還している。」

「それが、”神武東征”っていう名前で、日本書紀には記録されたのかな!?」

「そうだと思う。」

「いろいろ当時は、貴族、豪族間では共有されている歴史をなんとなく踏襲しつつ、実はこうだったんです!的な、”週間実話”的な部分を混ぜ込んで、神話、ファンタジーにして、うまく丸め込もうとしている感じだね!!!」

「今の週刊誌の手法は、そんな昔から!www」

「しかし、皇統自体がソガ一族で、武内宿禰は、蘇我氏の祖先なんだから、不義って訳でも無いような気がするね!当時、よくあった、兄嫁を娶り直したとか、その程度のことかもしれんし。」

「天皇家と蘇我氏を、うまく分離して、『蘇我てのはよ、悪いやつなんだよな!天皇様をこんなにも足蹴にしおって!』みたいに描きたい!」

「しかし、百済と天皇家は悪く言いたくない!不比等、困っちゃうーー!wwwwwwの挙句、この神話か!www」

「ま、他にも、いろいろあるよ!大切なことは、

天皇家〜蘇我本宗家
藤原氏〜滅んだ百済王家の末裔(豊璋)

って視点で見ると、いろいろ辻褄が合ってきて、すっきりとわかりやすくなる!ってことだね!」

「しかし、日本書紀には、わざわざ、『卑弥呼は神功皇后かも???』って注釈つけてますよね!」

「それも、目くらましかな!?!?邪馬台国の正当な後継が神功皇后の皇子、神武だとしたい!から、なんとなくそうほのめかしている。しかし、妾、神功皇后は、トヨ(壱与)だと思うぞ。」

「実態は、神功がヤマトから派遣されて、卑弥呼亡き後の北九州を平らげたんだけど、そうすると、漢王朝や魏王朝に正式な倭の国王と認められていた卑弥呼の王国とは別になる。それは、めんどくさい!」

「めんどくさいっていうか、場合によっては、(北九州連合政権は、魏の地方自治体と認定されていたとすると、)魏に弓をひいたカドで、大陸から、魏の本体が攻めて来るかもしれないですよね!!!」

「なのでね、神功であるトヨは、卑弥呼の”宗女”(義理の娘みたいな意味)であるとして、魏(か、晋かな?もう???)にご報告奉ったというわけっかな???」

「なるほど、政治ってのは、大昔から、めんどくさい!wwwwwwww」

「蘇我と天皇家の分離は至る所で、なされているね!例えば、聖徳太子!これは、蘇我一族っぽいけど、はっきりとそうは書いていないね。」

「むしろ、蘇我本宗家の馬子ー蝦夷ー入鹿と続く無体な連中をなだめたり、スカしたり、うまくやっている。一方で、すごい聖人で、いいことばっかりしている”神の子”みたいに書かれていますね!」

「馬子や蝦夷、入鹿あたりの善政の部分は、この人に押し込めて、むしろ皇室に近い人の業績にして、蘇我本宗家と切り離したみたいだね!」

「細かいっていうか、セコ(ry/////」

「しかし、例えば、推古天皇は、和風諡号は”豊御食炊屋姫尊(トヨミケカシキヤヒメのミコト)”となっていて、”トヨ”の系統で、ソガ一族(武内宿禰の子の子孫んだから!ってのと、お母さんは、蘇我本宗家の 蘇我堅塩媛だね!)であるってわかるね!」

「いろいろ脚色したけど、嘘は書いてないよ!みたいな感じですかね!?!?」

「そだね!」

「まあ、古代の話は、文献も限られているし、素人がいろいろ感想を思ったり、書いたりは、楽しいね!」

「近現代史は、口にすると怖いとこもありますしね!」

「そだね!、古代の歴史と、考古学的な発掘ジブツは、いろいろ妄想するにはもってこいだね!」

「またやりましょうね!」

「おうよ!」



追記)

1。前にも書いたけど、半島の海岸沿いには、内陸の支配者たちとは別の氏族
 がいてね、向かいの島々と同じ人たちっていうのもよくあって、例えば、
 瀬戸内海の村上海賊なんてそうだよね!もっと、国レベルで大きいところ
 では、ブリテン島でも、現王族は、ドーバー海峡を支配した海賊ロロの子
 孫だね!
 
 イングランドは、1066年のウイリアム征服王の征服から始まることになっ  
 ているね。このウイリアム征服王は、フランス貴族のギヨーム2世と同一人 
 物で、このギヨーム2世は、ノルマンディー公を兼ねている。つまり、海峡
 の両側を支配地として、海峡を通る船から、帆別に料金を取ったり、いう
 こと聞かなければ、身ぐるみ剥いだりしてるわけだ。このように、狭い海
 峡を生業とする海賊ってのは、両側を支配しなければ成立しずらい。だか 
 ら、倭の天皇家の始祖も、兵庫や京都の北海岸沿い、北陸から越あたりと  
 同時に、韓半島の南西部分(新羅系伽耶や任那地域)を領有していた可能性 
 が高い。これはもともとどちらかにいたやつがどっちかを征服したとかで
 はなくて、東アジアでは、超古代から、倭人は両側にいたのだと思うよ。
 (実際、漢書地理誌だったかには、韓半島の南の海岸沿いには倭人が住ん
 でいる、と書いてある。)海賊も大所帯になってきたんで、そのうちの意
 欲ある若殿たちが、兵隊引き連れて、島の内陸部へ入ったんだと思うね!
 これが、天皇家の祖となった!で、奈良盆地のあたりで大和朝廷の元を作
 ってみたんだと思う。そしたら、瀬戸内海を通じて、北九州の勢力や山陽
 の勢力なども来ていたりして、すると、海賊業を営むにあたって、出雲が
 別勢力だと、かなりウザいよね!www で、国を譲らせたというわけかな
 っても思うよ!


2。 歴史をきちんと学ぶと、韓半島と列島は、南北に分けて、国の境界線
 を東西に引くのは間違っている。しかし、あるものは仕方ないので、どち
 らも州として、緩やかに連邦国家を作ると良いと思うんだよね!アメリカ
 でも、インディアナ州とカリフォルニア州では全く違うけど、合衆国を構
 成しているでしょ。そんな感じで、対等にね!で、高句麗や渤海の故地あ
 たりもまた別州にして、三州対等な並立で独立した連邦国家というか、
 ”東アジア合衆国”を作ると良いって思うんだよね!どうかな?!?

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