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歌、音、音楽についての感想文


「歌っていうと、姫はどんな感想ですか?」

「妾、歌自体というより、バックのバンドの音とミックスされた作品を聞くというスタイルが、個人的には好きだけどな。」

「ふぅ〜〜ん?何が違うんですか?」

「”歌を聴く”というのは、ヴォーカルの人の声をその人の発声の技術を通じて、聞かせてくれるものが主となるじゃろ?」

「まあ、歌って、そういうものですよね。そもそも歌ですから。」

「で、バックの演奏は”伴奏”で、歌に、一定のリズムを与え、メロディを補強するなどの効果だけしか期待されていない。しかし、音楽は、音を楽しむものだから、バックのメロディやリズムがもっと前に出ても良いはずじゃよな。もっと、曲ごとに、主観的なグルーヴなんかが前に出てきても面白い、とかな。」

「う〜ん、歌詞に意味がある以上、なかなか納得いかない人も多いんじゃないですか?」

「それは、わかるけどな。でも、日本人には、意味のわからない洋楽やワールドミュージックを好む層も一定数いる。」

「なるほど、それはもう、明らかに”歌”を求めていないんですよね。」

「音楽として、自分の体や心が求めるものにあったものを単に聴いていたいというのは、実は、結構、原始以来の人間の脳の本質的な構造と機能に根ざしている。」

「音を連ねて、音楽を作ったそもそもの理由のようなものと関係している、と。」

「きっとそうじゃな。脳が音を処理して、”情報”を取り入れ、環境によりよく適応することで、種の保存をより効率的にしてきた、そのことの熾火のようなものが現代的な技術を経て、復古してきている。」

「その、最初に言われたことの意味は、このオクターブのラの音がしていると、危険な奴が近寄ってきた。とか、このミの音は獲物の足音とか。。。まあ、名前でなく、絶対的な音感として聴いてきたと。」

「あ、そうじゃな、絶対音感というのは、ミミズみたいなやつはともかく、ある程度、進化した動物にはもともと、全てに備わっている原始的な能力だと思われてきている。」

「人間にも、生まれた時はあるということですか?でも、子供の時から、きちんと調律されたピアノのスケールなんか、毎日、一定以上の時間、意識的に聞かないと付かないって言いますけどね。」

「それは、”付かない”んではなくて、”無くなってしまわない”ようにしているんじゃな。」

「あ、そうなんですか?」

「諸説あるだろうけど、かなり信ぴょう性はある。少なくとも、進化と絡めれば、当然そっちの方に軍配が上がるじゃろう。」

「どうしてですか?」

「原始的な哺乳類なんかだと、上に書いたように、”音の絶対的な位置”である音名とオクターブを全て独立に感覚的に理解しているはずじゃな。」

「まあ、”お!C(ツェー)だ!”とかは言わないですけどね。」

「オクターブ違う、同じ音名の音は、ある種、””同じ音””, ”同類の音”と理解するのは、高度な脳の能力だよ。」

「なんで、そんなことになっているんですか?」

「それは、進化を続けた哺乳類が”言語を使ってコミュニケーション”とるようになったからだろうと思う。」

「え? 全然、意味がわかりません???」

「言葉を、音の意味をもつ連続とみなす時、大事なのは相対的な変化の総体じゃよな。」

「ああ、俺が高〜い声で「ヒーメ〜ー!」って言っても、低い声で、「姫!」って言っても、姫の脳が自分を呼んでいると理解することが必要ですね。」

「すると、脳は、音の絶対的な位置(オクターブと音名を指定することと同値)より、相対的な変化を全体として、聴き取り、意味を感じようとするようにだんだん進化していく。」

「なるほど、1匹1匹で、こそこそと暮らしていた原始的なネズミのようなやつは、音の絶対的な位置を理解して、餌だとか、敵だとか、感じて近寄ったり逃げたりしていたけど、類人猿からヒトになるあたりで、音の連鎖に意味を与えて、コミュニケーションを取り、事態を共有するようになった。」

「それでも、生まれてしばらくは、全てに絶対音感はあるはずなんじゃよ。使わない能力はすぐに退化するので・・・」

「あー、で、生まれてすぐから、外れない音を聞かせ続け、二、三歳になったら、強制的に一日、何時間かは、きちんと音の絶対的な位置を意識させながら、きちんと調律されたピアノの音を聴き、弾かせ続けないと、無くなってしまうんじゃろう。」

「あ、むしろ、普通の日常生活には邪魔ですらありますね。」

「自分の名前は、あるオクターブのある音名の音から初めて、3つほど繋がった音の連鎖である、などと理解していると、自分の名前が呼ばれていることに気がつかなくなる。」

「ものすごい正確な絶対音感の持ち主は、”今のは本当は私の名前じゃないんだけどな”って思っているんでしょうかね?」

「そうだろうな。まあ、社会性があるので、いちいち、訂正しないけどな。」

「あと、変な音のつながりなどには異常に、敏感になりがちだし、いわゆる音酔いなども出やすい。」

「下手なオケの練習で、気分悪くなったりするヒトいますね、確かに。」

「動物ってのは、いらない能力はなくして行くようにできている。洞窟の奥でしか暮らさない昆虫などは、目が退化して、痕跡だけになっていたりする。」

「ただし、無くしても、技術で一定のレベル、補えるとは思うぞ。」

「あー、耳で聴いた音を意識的に声に置き換える訓練をすると、無くした後でも、ある程度はヤレるようになる。」

「その処理速度を速める訓練をすれば、見た目、絶対音感がある人との違いは小さくなって行くじゃろう?」

「なるほど、ネイティブ言語と、年取ってから覚える外国語の違いみたいなことですね。」

「あ、そうそう、ネイティブは反射的にわかるが、そのことを、習得した外国語っでヤルってのは、ある種の処理速度をあげて、近づいて行く感じじゃなぁ・・・」

「まあ、高度なレベルでは、ギリギリのところ、違いは残る。」

「そうじゃ、まあ、普通は気にならないレベルの違いにまで訓練はできると思う。」

「まあ、しかし、本能的に反射的にできる方が、なんというか”真理”に直感的に近いというような感覚を味わえるんじゃろうけどな。」

「習得した技術としての外国語はいくらできるようになっても、いわゆる”横メシ”なんかは、疲れますよね。なるほど。」

「まあ、元に戻るけど、歌詞の意味よりは、個々の音楽のリズムやメロディ、グルーヴなんかを好む人たちは、一定数いて、それは、実はかなり原始的な能力と結びついている!」

「なるほど、”この音、このリズム、このグルーヴ”ってのを好ましいって感じる能力自体が、もう日常の、特に、言語生活とは切り離された、というか、言語生活することによって、捨て去られた古代的な原始能力の再獲得なんですね、多分。ふむふむ。」

「平均律ってのをな、バッハが整理した時期があるじゃろ?」

「はあ????それぞれ音たちの離れ具合みたいなものを数学的に整理したんですよね。」

「それまでは、音律ってのは、主観的なものじゃったんじゃ。」

「へー!人それぞれなんですか?そんなんで客観的な演奏とか、スコアとか残せるんですか?」

「厳密にいうと残せないよ。北斗神拳のごとき、一子相伝、口伝えで、あとはやって見せて、真似させる職人技術。」

「それぞれの流派に、その弟子筋だけがわかるような、原始的なスコアのようなものはあるんでしょうね?」

「それはあるじゃろうけど、それ自体が門外不出!」

「もう、ケンシロウとラオウの争いなんでしたねえ。」

「まあ、それをある意味、民主化したのが、バッハのおっさん!」

「確かに、厳(いかめ)しいツラつきの絵が残っていますね。立憲民主党の党首になってていいような顔です。リッケンバッカ党ってのを作りましょうか?」

「こらこら、あぶない冗談はそのくらいにしとけ!民主化はやはり大切な進歩じゃよ。平均律に従って、スコアを残せば、一定以上の理解力と技術があれば、誰でも創作者と同じ演奏ができる。これがクラシック音楽のコンテストの原初にある。」

「あーむしろ、楽譜通りに弾けってのは、バロック当時、最先端だったんですね。」

「同じようにできることがすっごい驚きだったんじゃろうな?で、キーを移して、移調なんてのも、自由になった。だから、創作者の意図を、楽譜だけからきちんと読み取り、自分の中に入れて解釈して、その通りの演奏をすることが大切になって行ったんじゃ。」

「最先端のモードだったんですね。」

「当時、そんなことができると誰も思ってなかった。」

「演奏者の主観的な音律に従った、独特のグルーヴみたいなものは、楽器自体や創作者、流派によって違って当たり前だったんですね。」

「今でも、純正律なんてのも残っているけど、それは一例で、極端な話、音を繋げる際の基本的な独立した音をいくつにして、どれにするか?は、自由というか、手作りだった笛とかギターの元になった楽器(リュートのようなもの)自体に依存して変わってたんじゃな。そう言った個性のある基本的な音ってのも、同時に、民主化されて、今では、どれでもいいけど、ある法則は満たせ!ってことになっている。それは、音の、波動としての物理法則から決まるもので、自然の法則じゃな。」

「今でも、雅楽の篳篥(ひちりき)なんかは、楽器ごとに、少しづつ、違うって言いますね?」

「自然の材木をそのまま、磨いて使うから、当然じゃよな。」

「穴の位置も、中の空気の震え方も、楽器ごとに少しづつ違う。」

「むしろそこを愛する人たちってのが、平均律的な体系化された音楽に対して、ある種のアンチ・テーゼ的に出てきてるのが現代の特徴でじゃろうな?」

「しかし、そのアンチ・テーゼ自体が、原始的な時代のテーゼそのものだから・・・。」

「そう、復古されたテーゼなんじゃよ。」

「繰り返しなんですねー!?」

「”残酷な天使のテーゼ”ってことじゃな。」

「何がですか?」

「ん?気分で言うてみただけじゃよ。」

「新しいってことが、実は、復古的って、いたるところで、輪廻してるわけか?」

「しかし、そういう個人の能力、特に、原始的な能力と結びついた”感覚”は、”わかる人にはわかる”けど、”ちょっと聞いただけで、嫌悪感”って人も変わらずいる。」

「これも、仕方ないですねぇ。そういうことなら。」

「ただ、文化や習俗は、より大きな社会的文脈で、意味が変わったりする。」

「というと???」

「カローラ、マークII、クラウンって発展して行くのが正しいって思い込んでいる人にな、例えば、1990年代くらいにあったアルシオーネSVXなんて車を見せると、見た瞬間、『変な車!』『デザインが下手!』『基礎からやり直せ!』みたいなことをすぐにいうわけじゃよな。」

「で?」

「しかし、このデザインは、『ジウジアーロ』(イタリアの有名な3Dデザインの事務所)だという情報を与えると、顔つきが一瞬で変わって、『へーすごいですね(でも俺はやっぱりいらないや!)』ってなる。」

「これは、20世紀の末辺りでの、日本という社会的な文脈がそうなんじゃよ。」

「今でも、そういう主観的に偏った文脈の音楽を一般に文句出ないように公開して演奏するには、ブラックミュージックなんかの世界でものすこく高名となっている人、例えば、ジョディシみたいなアーティスト連れてきて、一緒にヤるのが一番、簡単な方法なんじゃよなー・・・。ただ、安易な方法ばかりだと、そこから、進まない。」

「みんな、なんか変な音楽だけど、こういうものなんだねって一応、解ってくれるけど。。。。っていう。」

「まあ、その場は、納得するけど、結局、そういう人は、マークIIを買うわけじゃよ、けどな。」

「けど、マークIIしか買わない人に、SVX的なものの良さをきちんと解ってもらおうって人たちは、連綿として、いらっしゃるんですよね。」

「日本語でロックを!ってやってこられた人たちとか、YMOなんかに象徴される日本のPOP音楽の巨匠たちの軌跡をちゃんと見れば、色々わかるぞ。」

「坂本龍一教授が、キヨシローさんとコラボされたりしているのは、こんなところで素人の私が卑近な例をあげて、クドクド要らん文を書いているようなことを一瞬で説明する仕事だったハズですね。例えば、”いけないルージュマジック”なんて、プロがみるとそういう実験が音楽自体に入っているんですね!?」

「妾、音楽は素人だから、その辺の機序までは説明できんけどな。そうじゃろう!?そうでなければ、あの時期の”教授”がわざわざやった意味がないから、当然そうなっているはずじゃよ。」

「そういうことなら、なかなか5年程度のキャリアの子が、直球勝負しても、跳ね返されるでしょうね。」

「だから、たまに、炎上事件が起こる。上のカローラと同じで、文句言っている人たちは、自分たちが正道だと思い込んでいるのでな・・・。、ま、炎上も、若いうちなら、経験じゃよ。経験値上がる・・・。そして、今の現実”社会”にどう適応して行くか、考える契機にもなりうる。歌番組用の声を別に用意しておいてもいいし、な。できることを普段は使わないってのは簡単だけど、できないことをいざって時やることはできないから、ね!♡『こりごりだよもう、解っている人たちで、こそこそやってればいいや』ってのも一つの適応だけど、後ろ向きすぎてダメだろうな。少なくとも、若い人が取る戦略じゃない。とにかく、自分の道を生き通すのも一つ、ま、これは、歌番組の方から呼んでくれなくなりそうじゃな?しかし、一定数、売れ続けないと続けられないから、考えないとね。別に変なことして副収入があるとかなら別だが、せっかく、メジャーでやれているなら、それも、薦められない。中高くらいの頃のお友達のほとんどが、すでに、諦めているはずで、それに対して、環境をもらえた人たちは、孤独に寄り添いながら、しっかり歩むのが良い選択じゃろうな。森絵都さんのDIVE!!って話は、その辺の機微をうまく書いていて、好きじゃよ。」

「なるほど、一般の人たちを一方的に”解ってない”と断じて、無視しているだけでも、なぁってことですね。年寄りなら仕方ないけど、若ければ、もう少し、うまい道を探す時間があるだろう!っと。」

「そういうとこに思い至ると、”教授”やキヨシローさんたちが、それこそバブル前、70年後半から、80年代と、やってこられたお仕事の意味みたいなものを自分なりに納得していけるわけよ。結果、どうなったかはあんまり関係ない。やる意思があり、誰もやらなかったことをやってこられたんじゃ。」

「外国にかなり簡単にいけたり、本場のアーティストを呼ぶことが普通になったりしたことで、返って、ドメスティックな日本の状況は全体が退化してしまってませんか?そういう意味では。」

「外車みたいな車に乗るより、普通にほんとの外車に乗れてしまうことが、日本車をカローラ的なものだけにしてしまいつつあるかもしれんよな。」

「アンダーグラウンドにはいろいろ、動きも運動もあるんでしょうけど。」

「返って、表に出にくくなっているのは様々な社会的な要因も大きいな。」

「むしろ、80年代、90年代の方が、日本人の創るものってのは、多様性があった気もしますね?」

「イタリアっぽいものが好きなら、イタリアまで行けばいいじゃん!って手軽になちゃってね。」

「新型コロナ後の社会はまた、少し、変わりそうですね、でも。」

「ヴァーチャルなインフラも進展し、整理されるから、また、変わって行くかもな?」

「少なくとも、田舎の公民館で週一の”カラオケ講座”や”演歌教室”で教わったことをそのまま、SNSで、「この下手くそ、そんなんじゃ、のど自慢大会の予選も通らない!」っていう批判は、全く、的外れだという認識くらいは広まっていってくれるといいなあ。」

「認識はしても、カローラ買う人はカローラ、マークII、クラウンって買い換える人生を”成功”って思うんでしょうね。」

「それこそ、その人の主観じゃよ、それはどうでもいい。」

「そこのところの同調圧力は的外れだと理解できるような社会的な状況自体の進歩は欲しいなっていう話。」

「特に、プロとして、音楽に携わる人の中には、”のど自慢大会”で鐘をたくさん鳴らさなくってもいいやっていう価値観でやっている人たちもいるってことは理解できても損はしない。あ、まあ、ピッチ外しまくるとかいうことがあるなら、それはこの話の範疇外!プロとしての基礎的な訓練はできているとしてのね、話ではあるな。」

「ふむふむなるほどなあ、古い、新しいということとはまた別次元のこと、というか、関係ないんですね。」

「どっちが古いかは、上に述べてきたように、歴史的にどの時点で見ているかによるしな。それに、復古と言っても、螺旋状に上がっているわけじゃよ。」

「なるほど、上から見ると同じ位置でも、高さは上がっているみたいな。」

「主観的なグルーヴを楽しむってことを、進化したAIなんかを駆使して楽しむなんてことができる時代なんですね。」

「DTMなんか、まさにそうじゃよ。YOASOBIなんかが若い人たちの間で流行るのは、心のどこかに、原始的な喜びや快感を求める精神的に深い何かを持っていることの現れなんじゃろうな。だから、AI使うってとこは技術的な部分で、しかし、気持ちよさの感覚ってのは、個人に固有だから、そこは、生楽器かAIとかか?ということとは本質的には関係がない。脳の原始的な部分には、特別な音や音の連鎖には快感を感じたり、恐怖を感じたり、っていうような原始的な部分があるはずだと。そこんところをきちんと感じて、伝わるように表現できる人なら、同じような根っこの人には支持されるはずだよね。昔は、楽器を弾く練習するしかなかったけど、いまでは、表現者の方にも、選択肢が広がっている。そういう意味での民主化もあるなぁ。しかし、大人の社会で訓練されて、うまく生きて行くことばっかりになると、そういう喜びや快感の扉に蓋してしまう習慣がつき、いつの間にか、なくなってしまうんじゃと思うな。なんというか、そこは教育制度の問題でもあるんじゃが・・・。一般化は難しいじゃろうな。多様化を認める、同調圧力を小さくするって方向に向かってくれればと祈るのみ!これは個人の努力ではどうしようもないけどな。」

「で、”いつかはクラウン!”ってCMをボーとみて、まだ、うちはマークIIだけど、いつかは!って本気で思い込むように・・・」

「いやっまあ、相対的に、それも主観なんで、それはそれでいいんじゃよ。そういう人もいていいけど、そうでない人もいてもね、っていうさあ・・・。」

「そういった全体が、リゾーマティックにカオス的に含まれるような社会的な状況ができてくればなーっていうことですか?」

「まあ、商売ベースでは、むしろ画一化と同調圧力利用して、とにかく、売りまくれ!っていうやり方もあるから、さらに難しい。なんとか、非同調的な、多様化圧力的な?そういうことになって行けばなぁとね、思う。」

「コロナは、あんまり大声で今、言うと怖いですが、一つのエポックメイキングな事象だと、後から、意味付けされて行くように思いますね。」

「だといいな。さて、今日は、フォションのセイロンを入れてくれ。」

「正論述べましたしね。」

「正論自体が、主観じゃよ、(^◇^)」

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