道明寺を知っていますか?
「姫は、南大阪方面は詳しいのですね!」
「そう、安土・桃山の頃は中河内のいまの東大阪あたりにおったよ。」
「へー!じゃあ、大阪、冬の陣、夏の陣など身近で経験されてんですねぇ〜〜〜!」
「冬の陣は、なかなかのものじゃったよなぁ。大阪方は、浪人とは言え、名だたる武将がな、キラ星のごとくおった。」
「真田幸村、後藤又兵衛、薄田隼人正、etc etc 本当に戦国の最後を飾るに相応(ふさわ)しい武将たちですね。」
「特に、数年前の”真田丸”でも話題になったが、真田幸村の智謀は目を見張ルものがあったそうじゃ。あと後藤又兵衛は、その前の軍師官兵衛でも少し、出て来たが、黒田官兵衛にその才を見込まれ、子供の時から、長子・長政とともに育った英傑じゃよ。」
「官兵衛引退とその死後、家督を継いだ長政さんとそりが会わず浪人したのですねぇ・・・。」
「そうそう、長政は官僚タイプで、徳川幕府でも無難に黒田家を福岡の地で栄させる基盤を引き継ぎ、大きく育てた。」
「後藤又兵衛の方は、官兵衛の軍才、軍師としての素質の方をより濃く受け継いでな、それでは、当然、ソリは合わない!」
「真田も、長男、信之の方はやはり無難な官僚タイプで、江戸幕府で、やはり、大名として存続する。」
「そういう意味では、どっちに転んでもいいような手を打ったんじゃな。真田の父さん(昌幸さん、真田丸では草刈正雄さんがやってましたね!)も、黒田官兵衛も!」
「意図して、長子、長男には、無難に権力者に寄り添えるような教育を!そして、次男や愛弟子には、一発勝負できるような軍才を仕込んだ!っていう見方もあるんですね!」
「どちらも、武士じゃからな。お家の存続は一大事!しかし、一発勝負に出るためのタネも撒いておくというわけじゃよ。」
「ま、才能を見抜く目も必要ですよね!」
「最初に述べた道明寺ですが、ここは藤井寺市の中にあり、近鉄南大阪線が通っておる。」
「石川っていう、大和川の支流沿いの街ですね!」
「ああ、この河原で、いわゆる””道明寺河原の戦い””があった。」
「後藤又兵衛、薄田隼人正、御戦死の戦いですね!」
「そうそう。見事な戦いぶりだったそうじゃ。」
「徳川方の先鋒は藤堂隊、そして、井伊隊に出会ったと記録にある。」
「藤堂隊は、後藤又兵衛、薄田隼人正の敵でなく、かなり押されたそうじゃな。」
「そこで、井伊直政の隊が、武田信玄から引き継いだ”赤武者”の群れとなて、後藤隊の横っ腹を突いて、戦況をひっくり返したそうじゃ!」
「さすがですね。井伊家は、いわゆる安城以来、岡崎以来の譜代ではなく、その頃は、やはり三河と遠州あたりの一つの別勢力であったが、あまりにも直政の働きぶりがよく、家康も大いに信頼し、大老にもなれる破格の扱いを受ける。」
「その頃のことは、これもまた、”女城主直虎”でやっておったな!」
「はい、井伊というのは、剛運ですね。」
「戦国では、それも大事な要素よ!」
「しかし、道明寺!そんな激しい戦いがあった場所とは思えませんよね、今では。」
「ああ、片田舎の小さな町の、またその小さな寺じゃな。」
「え、道明寺ってお寺があるんですか???」
「そりゃあ、あるわい!何じゃと思っておるのか???」
「道明寺って、あのさくら餅のことかと思ってましたよ。」
「あ、それとも、もちろん関係がある。」
「関係あるんですね!」
「ああ、そのお菓子に使われる米粉が、”道明寺粉”というんじゃ。」
「へー!何か言われが???」
「言われというか、乾飯(ほしいい)じゃな、もともと。」
「戦に行く足軽さんたちとかが、腰につけて持ち歩くやつね。」
「そうそう、一度炊いて、乾燥させて軽くしたやつじゃな。」
「なるほど、もち米が使われているのは、腹持ちが良いように、なんですね!」
「ああ、多分そうじゃな!それで、江戸期以後、その道明寺粉に、京都の御菓子司が目をつけたようなんじゃよね!」
「なるほど、なるほど、それはいいですね!甘いあんこをうまく組み合わせて、様々に意匠もし、いろんなお菓子に使ったんでしょうね!」
「一番、有名なのが”さくら餅”なんじゃよ。」
「関西風のさくら餅のモチモチ感は、道明寺粉からきているんですね!」
「道明寺粉は、この道明寺でも買えるぞ!小さい寺で、寺務所が本堂の横にあってな、そこで、道明寺粉ください!って言えば、誰でも買える。」
「へー、お菓子に使ってみたいですね!」
「元は、乾飯(ほしいい)じゃからな、なんでもできる。」
「単に、戻して食べても、そこはかとなく美味しそうですね。」
「ああ、日本風のカンパンみたいなもんじゃからなぁ・・・。」
「関東風の長明寺てのもありますよね!」
「ああ、あっちは、クレープみたいに薄めの生地であんこを巻いてあるやつな。こういう”うんちく”なら、いまでは、たくさんのWEBがあるから、読んでみな!」
「なるほどなぁ・・・・・・・。こういうの文化って感じがしていいですね!www」
「そういうもんじゃな。ところで、道明寺さんの隣には、神社もある。その名も道明寺天満宮という!」
「へー!こんなところにも!」
「どうも謂れが結構、古くてな。菅原道真公のおば様というのが、上の道明寺の庵主様だった時期があり、覚寿尼公というのだけれども、罪を得て、太宰府に流される時も、おば上に会いに立ち寄ったなど、お話がある。」
「ふう〜〜ん、なんか雅なところですね!」
「話だけ聞いているとな、実際は南河内の普通の田舎じゃよ!」
「梅園もあるんですね!さすが天満宮!」
「牛もあるぞ!天神様の乗り物は牛と決まったもんじゃ!」
「こんな雅なところでも、血なまぐさい戦(いくさ)もやったんですねぇ・・・。」
「ああ、時代とはいえ、なぁ。」
「しかし、幸村の最後はもう少し、大阪市の方へ寄った位置じゃな。と、いうのも、この道明寺河原の戦いには、幸村は間に合ってないんじゃよ。どうも、折からの雨と早朝の霧で、道がよくわからなかったらしい。」
「ふう〜〜〜ん、なんかあれほどの軍師が珍しいこともあるもんですね!」
「ふむ、幸村様はな、大阪方には、将来がないと諦めておられたようじゃな。」
「ん?どうしてですか???」
「冬の陣の前までは、な。まだ、望みもあったようじゃが。」
「確か、停戦になって、そ、淀の方か!」
「そう、その淀の方は豊臣秀頼の母上じゃが、美丈夫の息子を頑として戦場に出さぬ。秀頼君は、なかなかの偉丈夫で、背丈もあり、イケメンだったらしいぞ!それで、いまでも、父親は秀吉ではなかったのでは?との説が絶えない!」
「まあ、文春風のスキャンダルは、俺はどうでもいいですけど、しかしなぁ。軍師だけ集めても、その上の神輿に乗れる大きな大将がおらんと、組織は、特に、戦国の軍団など、絶対まとまらないですね!」
「彼ら、利害だけで集っているからな!」
「家康方は、さっきも言ったけど、安城以来、岡崎以来と言った譜代の猛将に加えて、伊達政宗など外様の連合軍もツワモノ揃い!」
「この辺りの状況は、”城塞”(司馬遼太郎著)に詳しい。」
「伊達様といえば、真田幸村様と最後の最後にご縁があったのですよね!」
「ああ、それも有名じゃな。明日は負けと決まったと諦めた幸村様。しかし、ここが死に場所と戦国の武将としての矜持を持った幸村様はな、自分のことはともかく、息子と娘はなんとかしたいと考えられたんじゃ!で、娘と息子を真向かいの陣地にいる伊達軍の家老であり、軍師でもあった片倉小十郎景綱というものに託すんじゃよね!」
「もともと御面識があったのですかね?」
「いや、知らん!?多分、直接会ったことはなかったじゃろ!?しかし、伊達といえば、東北の雄であり、関東をも伺う勢いを示していたしな。それに、真田家というのは、もう、随分と前から、武田の一方の触頭でもあり、関東の覇権を巡って、越後の上杉、関東の北条、駿河の今川、常陸の佐竹などとずっと争ってきた仲じゃ、まあ戦友じゃよな。」
「その上、一両日戦ってみて、片倉のみごとな戦術と駆け引きのうまさ、それに兵の強さを感じたんじゃろ!?」
「敵とはいえ、味方の有象無象の元浪人連中じゃあ、心もとないですね、確かに。」
「適当に身ぐるみ剥がれて追い出された後、敗戦の武将狩りの山賊や浮浪どもの慰み者にされてはかわいそうじゃよな。」
「自分は一代の武将。戦で負けて死ぬのは兵家の常でもあり、死に場所を得た以上、もう、我が身のことは良い、が、しかし、娘や息子は道連れにしてはかわいそうと。」
「考えたんじゃろうが、ここはお互い、読み合いの妙味がある。」
「片倉としては、あの真田の倅と娘が頼ってくるといえば、もちろん、伊達の殿様にも報告したろうが、一切を背負って、仙台に帰陣させた。」
「幸村様も、あの伊達家の軍師・家老を勤めて、関東にも名の轟く片倉殿ならば、如何ようにもせよ、悪いようにはなさらんじゃろう!と思っている。」
「娘はお梅、息子は大八と言ったが、お梅は景綱の息子、重長の正妻になる。そして、大八は養子となり、片倉家の分家をもらっている。」
「伊達政宗というのは粋な殿様ですね!」
「ああ、とりあえず、後々幕府にバレても『まさか真田の娘、息子とは思わなんだ!子供がとぼとぼ歩いておったので、哀れに思い、命を助けたまで!』と言い逃れし続ける。」
「まあ、本当にバレても、『それだからどうしたというのか?』と開き直れる実力をもってのすっとぼけなんですよね!?」
「そうじゃろうと思う。実際、伊達政宗は、3代家光の頃までは壮健で、色々、幕府方からいちゃもんつけられても、睨み返すというような迫力があったそうじゃからの!www」
「もう、20年前に生まれていれば、と何度も思ったに違いないですね!」
「仙台の周りをやっと平定し、固め終えた頃に、秀吉が小田原攻めにきた!」
「舞台にいざ!って思ったときには、演劇の最終幕が降りようとしていたんですねぇ・・・。」
「東北ってのは、源平の頃の藤原清衡、秀衡、泰衡あたりの頃から、おっとり刀で出て行こうかな?って思ったときには、すでに大勢が決しているという間の悪さがあるなぁ・・・。」
「まあ、古代、中世までは、地理的に制限がありましたからね!お上に忠実」
「今は、もう、関係ないけどね!」
「ふうん、歴史の交差点では、また違ったちょっとした物語があるものですね!」
「ともかく、真田の血は仙台に残った!」
「天晴れですね。日本では、戦国でもまだまだ秩序と美意識もあったんだなぁ・・・。」
「日本人の美徳じゃな。」
「戦国といえば、ルール無用の殺し合いばっかりのイメージもあるかと思うけど、日本の戦国は、特に末期になると、それぞれの領国ではかなりの秩序も回復していて、戦国大名は、それぞれの領地の農民や国人・地侍たち、さらには、商人や工人などをもキチンと撫育してきた。」
「そうしないと他国に蹂躙されるからでもあるんですね。」
「そうそう、応仁の乱の頃は都大路が死体で埋まって、まともに歩けないって言われたものじゃったから、それと比べると、次の江戸期の平安の時代への社会的な準備は出来つつあった言えるじゃろうな。」
「武器も進歩していたし、それに、商業もやはり奨励せねば、自国では取れないものもあるからですね。」
「そう、歴史的な時間の経過というのは面白いものじゃ。」
「個々人のその時代での足掻きもまんざら、無駄ではないのですね。」
「結実するのは、何代も後になるけどな!」
「それは致し方無いですね。」
「残念だがそういうものですね。」
「さて今日はこの辺りで一休み!っと。」
「そうしましょう。」