武家の歴史を概観してみよう!
「”鎌倉殿”も随分と進みましたね!」
「北条氏の活躍は、まだまだ、これからじゃけどな。」
「北条氏は、伊豆、韮山のそばの”北条”という在所を開いた開祖から始まっているんですよね。」
「関東武士としての北条氏はそうじゃな!」
「で、桓武平氏であるとした。」
「そう!しかし、元々は、伊豆の国人だとは思うんじゃけどな!www」
「後北条氏の開祖、早雲が伊豆を平定してから、ずっと韮山を根拠地にしているのも、北条のそばにあったからですよね。」
「そうそう、小田原を平定しても、そこは息子の氏綱に任せて、自分は死ぬまで、韮山を動かなかった。」
「伊豆は、堀越(ほりごえ)を擁していて、鎌倉公方の一方、足利政知さんがいた御所もその辺りですよね。」
「伊豆は関東ではないが、関東の出入り口にあり、韮山、北条のあった在所は、住みよいところであったのだろうなぁ・・・。」
「現在は、静岡県伊豆の国市の一部ですよね。」
「うむ、暖かく人気の良いところであったと言われておるな。」
「頼朝様は、なんで、鎌倉にしたんですかねぇ?」
「よくわからんが、頼朝様が配流になったのも、北条の在所の少し北に当たる蛭ヶ小島ってとこじゃよな。」
「そのまま、伊豆でも良かったように思うけどなぁ。」
「やはり、関東の覇王としては、関東に在所、幕府があるべきなんじゃろう!w」
「伊豆と小田原や鎌倉を擁する”相模”とは、箱根の大山塊で隔てられておるしな!」
「箱根から向こうは別の国という認識でしたかねぇ・・・。」
「そうだと思う。平安後期には、平将門の乱などあり、関東は別の国、わしはここの覇王であると宣言した人がいる。」
「その流れなんですね。鎌倉幕府はそう言った関東の土着の武士たちの思いが、兎にも角にも、結実した最初の公式の形である、というわけですか?」
「そうじゃな、その夢は、常に西国からの”陰謀”に晒されていく。鎌倉は、北条氏を京都の朝廷が取り込み、公家化させていくことで、骨抜きにして行かれたし、後醍醐天皇などは、関東、東北も含めて公地公民を復活させ、班田収授に戻そうということをした。」
「足利尊氏は、後醍醐天皇の改革に最初は乗るが、公地公民、班田収授など古代の夢、関東の開墾領主を家祖とする”関東武士団”は絶対に従わないと肌でわかる。」
「で、反旗、室町幕府!ってなりましたか!?」
「そうじゃと思う。しかし、足利幕府は、基礎があんまりしっかりとしていなかった。」
「関東の武士団というのは、基本的な権利は自分たちのものと思っているが、ただ一点、相続の時だけ、朝廷の貴種の公正な裁定を望む。」
「足利氏の室町幕府というのは、そこが不安定で、何もできなかったんですね。」
「上は、天皇家、摂関家、大小の武家の棟梁、下は、国人・地侍などはまだしも、ちょっとした農家の庄屋級のものたちまで、惣領が亡くなると、叔父と甥に別れて、親戚団が殺し合いをする時代。」
「南北朝がとにかくもおさまって、義満の代だけ、わずかな平安のときがあったが、その後、応仁の乱、戦国となっていく。」
「時代そのものが未成熟だったんですね。」
「日本の戦国時代はそれでも、まだまだ、秩序もあったと思われているよ。」
「しかし、義政など、都大路が死体で埋まり、まともに歩けなくなっていても銀閣だのなんだの、まるで気にしていない。」
「幕府の制度、法律が未成熟で、どうしようもなかったというのも一因だと考えられている。」
「奈良、平安の前期など、地方はまだ、穴居しているのが庶民で、弥生式の農業があったとはいえ、平安京の貴族と郊外から地方でなんとかやっている農民の暮らしは雲泥の差があった。」
「鎌倉の成立は、地方の農業生産力の飛躍があるんですね。」
「朝廷がそれでも、貴族社会の存続に”陰謀”を巡らせてばっかの時代を経て、室町、戦国となっていく。」
「戦国時代は、専門の兵士が増えて行きますよね。」
「少なくとも鎌倉の武士団というのは、普段は、農民。在所で、田んぼを耕して、自給自足、自立している。」
「何かあると、手弁当で”いざ鎌倉!”ってなるわけですね。」
「北条早雲の伊豆、相模の平定時代でも、兵隊は、農民で、普段は在所で田んぼやっている。」
「関東では、その後100年で、専門の兵隊さんとそれを組織した軍隊ができている。」
「はっきりと専門の軍隊を組織したのは、織田信長の5隊長(明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、柴田勝家、前田利家)あたりからだと思われているけどな。」
「彼らにしても、軍団長として給料をもらっているというわけではなく、領地をもらって、そこからの徴税権を与えられているんですよね、でも。」
「ただし、足軽隊など、専門の軍隊を組織した。彼らは、もう、土地を持っているわけでなく、兵隊として給料もらって、戦闘のプロとして生きていくようになる。」
「関東の北条氏など、3代目の氏康の頃にはそのような軍団組織があってもおかしくはないと思いますけどね。」
「ある程度あったと思うけどな。歴史資料は、やはり京都中心の朝廷周りからの文人資料が多くて、(後)北条氏の政治はよくわからないことも多いんじゃよね!」
「まあ、でも、地方の農業生産力や流通、貿易といった商業インフラも整っていく。戦国時代というのは、領国領国でとしていつつ、貿易を行っていたので、のちの江戸時代に繋がるインフラはこの時代に整備されて行ったんじゃよ。」
「織田信長の楽市楽座、豊臣秀吉の太閤検地、と言った合理的に物事を裁定していくためのインフラも整備されていくと同時に、頼朝以来の夢を実現したのが、家康じゃ!」
「あまり語られてきませんでしたが、小田原北条攻めの後、関東に領地替えされたのは、家康としては、大ラッキーでしたよね!」
「秀吉とという人は、歴史意識があまりなかったとしか言えんな。武家、特に関東の武士団というものの行動原理がわかっていない、としか思えない。」
「家康は関東に入って、(後)北条氏の有形・無形の遺産をごっそり相続したんですね。(後)北条氏の統治に、仕切りに感心しているようなものも残っているし、その後の政治も明らかに岡崎、安城時代とは違って、ソフィスティケートされていきますね。」
「頼朝以来の関東武士団の夢は、北条、足利、早雲の(後)北条氏ときて、そこでの様々な経験値をひっくるめて生かした徳川幕府によって、結実した!そこには、地方の”力”自体の飛躍があったというわけじゃよ。」
「江戸末期など、公家の窮迫ぶりは凄まじかったようで、振売の魚屋さんが京都の街をフリフリ歩いても、ほとんど腐りかけの小魚しか買う財力がなったという書物が結構残っている。」
「家康から、3代、家光あたりにかけて、金地院崇伝、天海僧正(一説に、明智家ゆかりの智慧者と言われている)など、歴史を知り尽くした賢者が知恵の限りを尽くして、公家社会に取り込まれないような武家の社会制度を構築したんじゃな。」
「以後、270年ほど、うまく機能して行きますね!」
「が、黒船の脅威を生かして、お公家さんたち、息を吹き返して、明治維新となった!」
「この国は、天皇家は大切に扱うべきではあるけど、親政を目指すとロクでもないことになるというのがその歴史ですね。」
「昭和の軍部独走時代の遠因は、明治維新の時の制度の創出が未熟ゆえとも考えられる。」
「もっと、江戸時代の智慧を生かしてやるべきでしたよね。」
「返す返すも、慶喜さんがなぁ・・・」
「彼は、能力あったのに、色々ハメられて嫌になって、その能力を自分の趣味のためにだけ使って生涯を終えることになりましたよね。」
「前回の大河の渋沢さんなど、経済、財政方面では智慧を尽くして頑張ったわけですが、政治の工夫という意味では、前政権からの智慧をぶった切ってしまっていて、どうしても昭和という時代を迎えざるを得なかったと思われますね。」
「統帥権干犯など、江戸時代の智慧をキチンと踏襲していればなぁ・・・。」
「日本の天皇家は、ある意味、世界に誇れる文化としての意味があるわけですが、季節折々に祝詞でもあげていてくれる方が平和なんですね。」
「極端に単純化してしまうと、それが家康とその側近たちの頼朝以来の歴史を踏まえた智慧なのじゃよ。うまくやっていく政治家たちの登場を待ちたいのお。」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?