久しぶりの暇つぶし!w
私は、理系の出身ですが、進化学、生態学や遺伝学は専門でなく、高校の生物でやる程度の教養しかありません。しかしながら、今更、ダーウインを持ち出す可笑しさには耐えられません(笑)しかし、強調しておきたいことの一つは、ここで書いたようなことは、現代の日本の中学や高校の”生物”の課程で、結構きっちりと教えられていることです。みんな、忘れちゃってるんですよね。文句ばっかりいう人は多いけれど、日本人は持ち前の真面目さと周到さなどを発揮して、結構、優れた教育課程を創り、守ってきています。もちろん、改善点はあるでしょうが、建設的に議論していけるレベルのことです。
チャールズ・ダーウィンは、200年以上も前に生まれた方です。その才能は、ヒトの種の中で、飛び抜けていた部分があり、いまでも、”種の起源”(日本語訳が確か、3種類くらいも出ていたと思いますが)などはいまでも、教養として読む価値のある書物であると考えています。パイオニアの思考の進み方やその軌跡は、物語としても知っていると面白いと思うからです。
ただし、200年の歳月において、着実に科学的事実が積み重ねられ、言説は進歩・発展しています。
メンデルなどもそうですが、その当時のバックグラウンドに置いて、表現形態についてのマクロなものとはいえ、遺伝の法則にいち早く気がつき、そこに満足せず、様々な例外なども集め続けた科学研究者としての資質と実行力には頭がさがる思いを自然に持ちます。
しかしながら、この当時、”子は親に似る”程度の観察事実しかなく、遺伝を実装してるコードもその運び手の実態も全く、わかっていませんでした。DNAの二重螺旋が、ワトソンとクリックによって発見されるのは、「二重螺旋(1953年)」ですからね!どのような優秀な学者さんでも、その時の科学的な地平を超えて、モノを考えることはできません。アリストテレスは天動説だったそうですが、それは彼の優秀さを微塵も壊しませんよね。
現在では、まともな(少なくとも理系の)科学者が、”進化”という言葉を発するときは、どちらの親にも似ていない子供の形質について言及するときです。要するに、「子にはどちらの親とも違うとこがあるよね!」ということで、そういう点があれば、そこが”進化”した!と言います。最近は、誤解を生むので、単に変化した、変異したとしか言わない研究者も増えているそうです。つまり、それが、いいか悪いかは関係がないです。優等とか劣等とかも関係ないです。こういう意味でのいいか悪いかは、環境自体についてのエクスキューズが必要で、その上で、まともな科学者が環境というの時の”環境”は、社会的なことや人工的(アーティフィッシャル)なもの、その他、天敵や協力者、共生者がいるかなども含め、様々な観点から、全てを含めての「環境」のことで、単なる自然環境ではありません。
マクロな表現型の変異・変化がわかりやすくあれば、いいか悪いかに関わらず、進化と言いますが、進化があったとき、その時の”環境”において、適応度が従来のものより上がるか、同じ程度なら、生き残ります。適応度が下がれば、せっかく変異しても、だんだんいなくなりますね。(大抵の小さな”進化”は、だから、消滅します。)たまに、時の環境にすごく適応していれば、増え続けます。しかし、環境自体も時々刻々、変化しますのでね、常に優勢とか劣勢とかはないんですよね。そもそも確率的に起こる、DNAの配列からくる遺伝子システム上の変異は、こういう意味でランダムに襲ってくる”環境”の変化の下で、種として生き残り続けるための一種の戦略でもあると見做せます。進化は、固定された環境の下で、より優秀な種を残すための手段ではなく(そんなものは、”環境”が変われば、すぐ劣等に変わります。)、生物種の多様性を担保して、どんどん変化していく環境の下、どれかは生き残ることができるように考えられた次世代を残すための手段と見做す方が合理的です。
遺伝子レベルでは、子供を作るための生殖の細胞を作る時、減数分裂というのがおきますが、この時、単に、父親と母親に由来のDNAに分かれるのではなく、”組み替え”が起こります(これがないと有性生殖する意味がない!w)。さらには、コピーミスなどからくる(突然)変異が起こります(最近は、これも突然変異と言わない人が増えているそうです。誤解を生みやすいので・・・。)。従って、遺伝子型のレベルでは、変異、つまり”進化”は必ず起こっています。つまり、どちらの親にも似ていないDNAの配列があるよね!ってことだけを意味しています。繰り返しますが、いいも悪いも善悪も価値判断もそこにはないです。親のどちらにも似てない配列があれば、そこをさして、”進化”した(つまり変化した!)というのです。しかしながら、そのような変化は、ほぼ全てが、生命現象に大切なタンパクをコードしているところやその他、直接、重要な役割を果たすところからは外れている確率が高く、実際に目に見えるマクロな表現形質の著しい変化としては現れることはほぼありません。また、環境がある程度落ち着いているときは、いま繁栄している種がかなり良い適応度をしてしているからそうなっているのでありますから、マクロな表現形質の変異種が生まれても、大抵、適応度がそれよりは下がるため、何代かすると、消滅してしまいます。しかしながら、ミクロな遺伝子レベルの変異は、必ず起こるし、それがあまり、マクロには関係ない部分であればあるほど、逆に返って残りますから、目に見えないレベルでの生物の多様性を担保しておくことに役立っています。そして、大きな環境の変化があるときには、そういう担保されていた多様性が表面化するようなイベントとして、役立ち、次の適応種の創造に繋がっています。
このような小さな変異の積み重ねと担保されていた多様性が大切で、それが何億年という時系列の上で、様々な生命の大進化の源となっています。
ここまで書いてきて、結構、皆さん誤解されていることの一つは、”進化”というのは、遺伝と関係した変化であり、世代を繰り返していく中で起こる変化のことだということについて、です。つまり、ヒトのように、脳が発達していると、同じ個体が、環境の変化に適応するように考え方を変えたり、道具を作って適応することができますが、このような変化は、少なくともまともな科学の学問上は、進化とは言いません。よく学生さんとか「進化した俺を見てくれー!」などと叫んでいますが、このような言明は、学問上、間違いということになります(笑)!っw
正しい叫びの例としては、「進歩した俺を見てくれー!」や「発達した俺をみてくれー!」ってことになりますが、なんかダサいですね!www 私は、生命科学や生物学の専門家ではありませんので、この程度の誤用は、笑って見逃します。wwwwwwww
しかし、笑って見逃せないことの一つは、いまだに「黒人は劣等種」みたいなことをいう人たちですね。もう、学問の進歩というか、これこそ進化というべきかもしれませんが、そういうことを真摯に受け止めて欲しいと願っております。こういうばかな発言は、進化学や遺伝学とは、全く相反する馬鹿げた言説です。
進化の法則は、目に見えない変化を積み残しつつ、多様性を担保するため、何億年とかけて、生命が編み出し、維持してきた巧妙な手法であり、このような優等、劣等みたいなことを言うための手段とは正反対のことであると理解していただきたいと思っています。