見出し画像

破壊衝動の話

「久々に長老登場の予感」
「久々に丸一日をただの電子データに費やしたからなあ」
「だからAoDは私に向けて作られたスマホゲームなんですって!」

クレオパトラが真珠を酢に溶かした話を思い出していました。

高い価値があるものを壊す、その価値を破壊するということには一種の興奮が伴います。その価値が高ければ高いほど、興奮も高まるでしょう。

で、そのことを性衝動と結び付ける論がまあ、有るわけです。
クレオパトラとてももはや性の文脈を必ず背後に意識させるような語になってしまっていますが。

その中で私が最も印象深いというか、否定的な意味で忘れられないのが「愛妻日記」の「ソースの小壜」です。

「なぎさの媚薬」は何故か下巻だけ読んでそれから全然縁がなく読めてないのですが、やっぱり直木三十六の官能は私の波長にはどうしたって合わないんです。

より正確に言うなら、私も彼も理想とする性愛形態についてはある程度通じるところがあるにもかかわらず、私は現実逃避して理想の完全形態の描写に固執するために、現実から理想への移行あるいは対立を描く彼の作品を受け付けないのです。
「もう現実には随分不愉快なものがあふれているじゃないか、わざわざ作品中に不愉快なものを書く必要もなかろう」

そういう全体的な反感の上で、特に件の作品については特に厄介なことになっている感じがしています。
理想と現実が食い違う以上、理想へ向けた動きが現実の言葉をもって述べられる時、それは「悪」と呼ばれるしかない。しかしそれは理想が悪なる存在であると信じることと一致しない。(革命家は政権からすれば犯罪者ですが彼ら自身は自らの行いに善を見出しているから行動します)
この「悪」と悪が凄く混同されそうな破壊という形で表現されてしまっているのです。
その為に読者に理念への共感ではなく不快感をもたらしてしまう。

オーウェンからマルクスを見る感覚なのでしょうか、差し詰め空想敦倫主義者たる私は彼のアイディアを「闘争が自己目的化しているにもかかわらず理念をなお口で語り続け、ために理念が気持ち悪くゆがんでしまった」と感じています。

尤も、中一のころ「愛妻日記」を朝読書に持ち込んだ同級生のせいでクラス全体罰掃除という謎に理不尽な目にあった個人的な恨みがないとは言いませんが・・・・・・

「でも破壊衝動の存在は認めなしゃーないやんな?」
「ええ。ただそれは『戦う』のではなく『食べる』のでなければ」
「長老じゃなくてじいさんが来たか・・・・・・」

我がご主神様へのお賽銭はこちらから。 淡路島産線香代に充てさせていただきます。