会社を辞めて自由になった今、何を思うか
FIRE、つまり経済的な自立を果たし、悠々自適に生きることに憧れる人が増える一方で、「FIRE卒業」というワードがあるように、せっかく苦痛な仕事から解放され、自由を謳歌することができるようになったにもかかわらず、また雇われて働くことになってしまう人も多いようです。
私も実際にやってみてわかりましたが、FIREには向き不向きがあります。
自由とは使いこなすのが難しいからです。
それもそのはず、学校を出て就職するといった社会のレールに乗っかっていれば、常にどこかには所属しているし、何らかのやるべきことも与えられています。
そうなると、自由を使いこなすための訓練を積むことがありませんし、孤独耐性を身に着ける機会もありません。
例えば学生時代。夏休みの後半になり、暇すぎて、あるいは誰かに会えないのが寂しくて、「早く学校に行きたいなー」と思う人はFIREには向いていないのでしょう。
ある心境の変化
さて、私の場合。FIREして会社を辞めてから5ヶ月が経ちました。
定年退職したおじさんを先取りしているわけですが、これがなかなか楽ではありません。
仕事してないんだから暇でしょ?と言われることがあるのですが、まあなんだかんだで忙しいのです。
基本的には家事、娘の遊び相手やこども園への送迎、本を読んだり、山に行ったり、筋トレやランニングをしたり、企業の株価やIR情報をチェックしたり、ゲームしたり、親しい人と会ったりという日々を送っております。
今までちゃんとやろうと思っていたけどできなかったことをやっていると、案外忙しいものです。
時間を搾取されていた会社員時代は、こういったことがタスク化し、それをこなすだけの毎日でした。
しかし、今はこれらに時間をかけて向き合えるようになり、本当にやりたいと思っていたことをより深く、丁寧にやれるようになりました。
例えば、最近は「風来のシレン6」というゲームに興じているのですが、DLCの「超・神髄」というダンジョンが理不尽なほど難しくて毎日何度も頭を打ち続けています。
そもそもフロアが入り組んでて歩くだけで満腹度を消耗する仕様なうえにおにぎりが全然落ちてないし途中出てくるポリゴンに餓死寸前まで追い込まれるわサソリに毒を浴びせられまくってちからが1になるわオドロチドロに武器防具の強化値がごっそり削られるうえせっかく合成してつけた貴重な印も剥がされるしかといっての対策のための腕輪も全然出てこねえしもっと白紙の巻物出せよこんなん完全に運ゲーを通り越して無理ゲーじゃねえかと思いながらが99階あるダンジョンの半分も進めず力尽きてそもそもこんなタイパ重視の時代にじわじわかつ徹底的にゲーマーをなぶり殺してんじゃねえよ俺の3時間返せ、となるわけですが、そんなことにも(さほど)腹を立てずにいられるのは無職だからこそだと思います。
そんなことをしている毎日ですが、会社を辞めてから精神状態はこんな感じに変化していきました。
1か月目:解放感はんぱない。月曜日の午前中からのんびりできるって素晴らしい。これが一生続けばいいのに。
2か月目:あれ、そういえば自分って何の役にも立っていないし、成長もしていない。なんかヤバいんじゃないの?
3か月目以降:心穏やかに。
特に2か月目に出てきた得体の知れない焦りは厄介でした。
居場所がなく、誰からも必要とされない感覚。喪失感。孤独。
これらは会社員時代の幻覚のようなものです。
なるほど、FIRE卒業して仕事を再開する人の気持ちがよくわかりました。
そんなこんなで1か月ほど悶々とする日々を過ごしましたが、最近では大きな心境の変化がありました。
自堕落な生活を経て見えてきたもの
会社員時代、私はとにかく消耗していました。
特に、子育てをしながら夫婦ともに東京で働いていた時は本当にクソでした。
私が勤めていた会社は、典型的な日本の大企業といったところでしたが、
(残業含め)毎日12時間働き、隙間時間に家事や子どもの保育園送迎
24時間365日、会社の携帯にメールが飛んでくる。勤務時間外であってもそれを確認したり返信することが期待されている
休日は子どもの面倒を見るので休まらないどころか疲れる
1~2か月に1度は子どもが熱を出し保育園に行けず、子の対応について夫婦間で調整(特にコロナ禍では1度風邪をひくと1週間近く登園できないことも)
1年中これを繰り返す
次第に心は病んでいき、何のために生きているのかわからなくなっていました。
とてもではありませんが、他人を慮る余裕なんてなく、子どもの成長をまともに見守ることすらできませんでした。
さらに、そんな苦しい生活の中で、仕事で成果を出すために自己を高めなければならないという呪縛がありました。
今となっては、会社が従業員に期待する成長とは、組織あるいは上司にとって都合の良い人材になることでしかないとわかりましたが、勤め人だった当時は「Up or Outの恐怖」みたいなものが常に付き纏っていました。
現在、自堕落ともいえる生活をしているのは、おそらくその反動でしょう。
で、思ったわけです。「別に立ち止まったっていいじゃない」と。
精神的な余裕が出て初めて、成長していない(=社会に都合のいい人間になっていない)ことを受け入れられるようになりました。
そう受け入れたことで、見えてくる景色が変わりました。
どう変わったかというと、他者の成長に目が行くようになりました。
考えてみれば、どんなことにも発達期があれば、停滞期(成熟期)や衰退期があります。
大雨や雷をもたらす積乱雲だって、そうですよね。
この自然現象が示唆するのは、「自身の成長が頭打ちになると、やがて誰かの成長を支えるようになります。それはごく自然なことですよ」、ということではないでしょうか。
もちろんここでいう成長とは、社会にとって都合の良い人になる、という意味に留まりません。
冒険の主人公から物語の脇役へ
話は変わりますが、少年少女の成長ストーリーとはいつの時代にも訴求力があります。
ディズニー、ドラゴンボール、ONE PIECE、ポケモン、プリキュアなどなど。
時代とともにコンテンツはたくさん出てきますが、主人公が仲間とともに困難に立ち向かうことで成長し、何かを成し遂げるという構図は一貫しています。
誰しも子供の頃はそんな主人公に自分の姿を重ねていたことでしょう。
MOTHERシリーズという、発売から30年以上経った今でも根強いファンがいるゲームがあります。
ドラクエの派生版RPGともいえますが、これも少年が成長し地球を危機を救うストーリーでして、私は小6の時にGBA版の「MOTHER 1+2」を手にしたのですが、もう見事にハマったどころか、その後の人生観に大きな影響を与えました。
当時はゲームの主人公と私の年が近かったので親しみがわいたのもありますが、MOTHERシリーズの魅力は何といっても、個性あるモブキャラたちにあります。
ドラクエやポケモンといった、「優等生がつくった感のゲーム」とは違い、彼らのコメントは強烈に刺さりまくるわけです。
例えばMOTHER 2。
ある民家に入ろうとすると、ドア越しに、『じゃ クイズ。 「アルプスのしょうじょ○○ジ」 ○○のところにはなにがくる?』と問われ、「はい」か「いいえ」の選択になるところ、「いいえ」と答えると、「アルプスのしょうじょイイエジはないだろー」と突っ込まれ、
砂漠の真ん中にある壊れたスロットマシーンに1ドルを入れると、近くにいるメキシカンスタイルの3人組(兄のパンチョ、弟のピンチョ、友達のおおしおへいはちろう)がなぜか回り出し、この人間スロットで当たりになると景品のアイテムがもらえるものの、もちものがいっぱいだと、おおしおへいはちろうに、「すまぬが このはなしは なかったことに してくださらんか セニョール かたじけナイチンゲール!!」と言われ、
そして、どせいさんには独特のフォント(どせいさん語)で「ぐんまけん!」と挨拶される始末。
(群馬県はMOTHERシリーズの生みの親である糸井重里氏の出身地)
このゲームに出会ってから20年以上がたちますが、モブキャラがこんなふざけたことを言うゲームは、いまだお目にかかったことがありません。
このモブキャラたちは、一人ひとりが世界観を持ちながらも、時に主人公の冒険を支えてくれる存在なのです。
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自分の人生の主人公は他ならぬ自分自身であることには変わりありません。
しかし、ある物語の主人公から脇役への転換というのも、また大きな気付きをもたらしてくれます。
誰しもいつかは自らが望む方向への成長が頭打ちになり、それを受け入れなければならない日が来るものです。
それは決して悪いことではなく、社会の構成員の一人であることを肯定的に受け入れることで、心穏やかに、かつ素直に他者の成長を願えるようになります。
これもまた、真の意味で「大人になる」ということなのかもしれません。
(我が子に限らず)子どもたちの成長を見守る
消費者や投資家として、企業の発展を応援する
知人を山スキーに連れて行ってパウダー漬けにしたのち、一人の山ヤとしての自立を支援する
33歳でいわゆる社会のレールを踏み外した私は、こんな感じで誰かを見守り、時にそっと救いの手を差し伸べることに幸せを見出していく人生局面になったのだと感じています。
今のところ私は再び会社員になるつもりはなく、自由人(無職?)を貫く意志を保ちつつも、このMOTHERシリーズのモブキャラみたいになりたいのです。
まあさすがに、道行く人に、「ほっかいどう!」、と話しかけることはないとは思いますが。