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実る

今まで自分に溜め込んできた
まだ消化しきれていない「言葉」たちの
新たな意味づけや意味合いの調合のような
そんなものらが
今起きているような気がする

言葉そのものに無意識に付けている
自分なりの視点視座が
今のこの流れで動いている事により
「ああ そうだったのか!」となる
ちょっと手前の
言葉そのものへの感覚の変化

今まで持ち歩いていた角度からの
「そうか!」ではなく
観える角度からゴロリと変わったうえでの
「ああ!」という
キラメキの結びつきのようなもの


それは 今まで の
感覚立ち位置からそれを眺めようとしても
出来るものではなく
今まで というものが緩んだ時に
前触れなく突然現れるもの
もしくは
あまりに自然体にすぅーっと現れて
日常に紛れていくから
気付きさえせずに
いつの間にか受け入れているもの

こういった 動き をまざまざと観ると
かつての壮大な流れも
こうやって無意識レベルでも意識レベルでも
様変わりしてきたのだろうから
ものごとの進化というか
変容というか
いま自分がこうやって
「生きる」をやっている立ち位置までに
なんともまぁ ものすごい事が
起きては消えて来たんだろうなーと
いま に繋がるナニカ を
感じるまでもなく かんじる



我々の身体は細胞で出来ていて
それぞれの細胞はそれぞれの役割で
何ひとつ不要なものはなく成り立っている

この宇宙すべてを
ひとつの身体として観た時
我々ニンゲンはひとつの細胞とも言えて
森羅万象全てがそれぞれ一つの細胞として
それぞれの役割で
この世界が成り立っているから
存在に意味を求めることもなく
在ることそのものが 必然的で

自分の身体の細胞ひとつひとつの役割なんて
知らないし感じられないけれど
でも それら全部があって
自分の身体 として
成ってくれているのは確かで
それぞれがそれぞれにしか出来ない役割で
動いてくれている



それをこの宇宙ぜんたいとして
引っ繰り返して眺めて観ると
私という一つの細胞も
分かっていなくても何らかの担当があって
そのための個性特質であって
あらゆる全ての人は
その人にしか出来ない事をやっている

私というこのニンゲンも
あなたというそのニンゲンも
その特異特質でこの宇宙を
成り立たせている

もうそれは
否定しようのないもので

どれだけ自分は無力だとか
自分には出来ていないとか
自分というものを否定しようとも

もう 生れてるということは
この宇宙の細胞のひとつとして
充分役割を担っている ということでもあって

それ以上に
何も 足さなければいけないものは無いし
存在しているだけで
既にじゅーぶん なのだから



それでもエゴ自我は
生れて来た意味や役割を
知りたがるけど

意識をすぅーっと大きくひろげて
自分の拡げられる感覚めいっぱいに
私という意識を拡げてみると

その果てなく拡がっている
わたしというひろがりの中の
私という一つの点のようなものに
意識をシュンと合わせてみると

ハッキリとした言葉としての
返りは無いかもしれないけれど
何となくの感覚で
私というものの 役割のようなものが
感じられるかもしれない

これ という
何かではないかもしれないけれど
私は何らかの役割のひとつなんだ
というようなおぼろげな感覚は
感じるかもしれない

それは今 何なのか
ハッキリ分かっていないかもしれないし
知る必要もないかもしれないけれど

あなたの わたしの
存在そのものが

いま生きている ということが

そうである ということ



こうなんだよ と
知識で知っていても
それは言葉の蓄えでしかないけれど

今それらが
身体という器を通して
じぶんに染み込みはじめて

知識が 身になり始めている

知る から 理解 へとなって
その次へのステップへと
流れていく



いまはそんな事らも
起きているみたい ね



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kitoma
ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。