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なんとなくーをやってみる

仕事納めだった今日は朝の電車もいつもよりかは空いていて、乗っている人もお仕事モードじゃない人が多かった。なんだかまったりしてる感じ。

最終日はお弁当も作らずに~とかずっと思っていたのに、昨晩になったら何でか分からんけど「お弁当持ってく」が離れないので、何やらごそごそ作り出し。身軽に行きたいのにー!という思いをよそに食後のミカンまでしっかり付けて持っていった。

で、今朝ビル入った時に「なるほどね。」となる。商業施設が入っているからそれのどこかで買えばいいやと思ってたのだけど、なんと殆どのお店が今日から年末休みに入っておった。
外に出ればお店は幾らでも有るから買えないって事はないだろうけど、この寒さで外に買い出る気は全くなかったのでアブナイアブナイ。

すっごくクダラナイ事だけれども、自分の「何となく」をそのままやると、後から「なるほどね」が付いてくる。毎日そんなことの繰り返し。そのうちそれが当たり前になって、その「何となく」の感覚が訪れた時は、どんなに他の事考えてたとしてもそちらを優先させる。無理のない範囲で。それを繰り返していくと、「分かっちゃいるけどさー」が減ってくる。「何となく」をやった方がいいってもう分かってるから。
そうやって少しずつ思考からくる主張を、感覚へとスライドさせていく。

昨日は夕飯作る量も多くて。「なぜにこんなに作る?」と思いつつも出来上がり、当然食べきれないから冷蔵庫に入れておいたのだけど、今日になってみたら夕方からの予定が思っていたより遅くなり、冷蔵庫のもの食べればよい状態になっていて助かった。

もうね、本当にあれこれ余計なこと考える必要はないなーと思う。その方が上手く流れるし気楽でいられる。小さなことたくさん発見出来る。色んなこと感じられる。

そんな「たまたまの偶然」と思うような出来事が連なれば必然に変わるしそれが当たり前となる。この世の中偶然なんてない。そう思いたくない頭があれこれ意見述べてくるだけで。
頭の意見採用しないでそのまま起こるままにさせておけば、全てが必然となる。だって頭で考えてないから。余計な予測や振り返りをしないから、起きているそれが=(イコール)で終わる。

自分が引き寄せてる と考えるのも楽しい。でも、そう「考えてる」のは思考であり「自分が」だから。
外側の世界をより良くしようと頑張ってる限りは「自分」がついてくる。結果としてそうなったのと、そういう結果を求めて動く、のでは似てるようで違う。

もしちょっと疲れてるかなと感じるならば「自分が」頑張っちゃってるのかもしれない。
自分が頑張らなくても、もしかしたら大丈夫なのかもしれないというスキマをちょろっと思い出して、ほんのちょっとだけ「何となく」を採用してみるのも面白いかもしれない。


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kitoma
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