見出し画像

呼び起こしてくれるもの

図書館の休憩スペースで休んでいたら
両手に杖を持ってヨロヨロ危なげに歩いて来る
老年に入った位かに見える女性が現れた

大きな声で
「痛いわあー 足がものすごく痛いわー」
「どうしましょ あそこの椅子に座りましょ」
と言いながら足を引きずるように入って来る

歩きながらもずーっと
「どうしようもなく足が痛いわー」
「足が痛いの」と言っている

図書館の人を除けば
私以外はそこに居なかったので
席は沢山空いている

私はその人が数歩進んで来た時に
さっさと立ち上がってその場を離れた

両手の杖で支えているし
浮腫みも出てるし引きずっているし
足が痛そうだなとは想像つくけれど
あの大声で「痛い痛い」と言い続けているのが
どーにも私には耐えられなかった

何か突発的に起きて痛みが出たならば
おそらく心配に気持ちは向いたんだろうけど
どーにも私はああいった場面を見ると
そんなに痛いなら
一人で出歩かなきゃいいじゃない
と思ってしまう

痛くて大変なら
痛くないように歩かなきゃいいだろうし
痛いの承知で出歩いてるんだから
「痛くて大変」と騒ぎながら
そのエネルギーまき散らしながら
わざわざ歩く必要なかろーと

昔っから「私 大変なの」アピールしてくる人が苦手で
そう言う会話が始まったり 気配があったり
同意を求められたりし始めると
トットとその場から消える

本当に大変な人には寄るけど
見せかけの人からは離れる



久しぶりにそういう人に遭遇して
そーいやー前々からこの手の人は苦手だなあと
思っていたら
そうだ育った環境がそーだったと思い出し
社会人になって家を離れてからたまに帰ると
持っている物や着ている物を見ては
「それいいわねぇ そんなの買えないわー」と
別にブランドでも何でもない物を
何でも欲しがられて
追いはぎにでもあってるようで
帰るのが億劫になっていたっけな

で そこには
「私は大変なの」が隠れていて
それを無意識に言葉の支配で使う家だったから
私にも無意識にそういうコントロールに対する
拒否や嫌悪が出てたんだろう

以前はここまでの理解だったのだけど

「あれ? 家の時も 既にその時には
”追いはぎにあっているよう”と思ったなあ」と
突然思い立ち
ありゃー じゃあ
あの時のその場が原因じゃないじゃん
と気が付いた

あの場の状況がそう感じたと思っていたけれど
既にそう思っているのだから
それより前の感覚の蘇りだよねえ

って事は
もっとずーっと遥か前のかつての話で
多分今の私が作ったやつじゃないなあ
うーむ  またやっちゃってたよ
ずっと今まで生い立ち中の経緯だと
そこを掴んでいたよ

家でのアレは
かつてのどこかの強い思い絡まっているものを
出すための状況だったんかー
むーぅ



家族がー とか 友達がー とか
色んな場面でのこじれがあるけれど
それって その時の誰かがとか何かが
原因とか要因とか良いとか悪いとかじゃなくて

その場面で どういった感覚や思いが
強く現れて来たか を観るためのものであって
しかもそれは案外今の自分に
直接関係なかったりもする

確かにその時そういう事が起こって
自分が傷ついたりしたんだけど
その「傷ついた」と思ったモトには
「そうなると傷つく」という
パターンのようなのがあるわけで
その要素が自分の中に無ければ
「傷つく」というのがどういう事なのか
分からないのだから
傷つきよーがない でしょ

単に こういうケースで傷つく という
何かの強い思い を解く為のアレコレで
そこに 誰がとか何がとか 本当は関係なくて
自分に起きた事だけど 自分にも関係ない
とも言えるんだよねー

これも どの視点視座から観ているか
によるのだけど

私はあの「大変だわあー」の女性のお蔭で
今までずっと抱えていたらしい
思い違いに気付けたみたい

そうなると
その女性に対して持っていたヤな感じも
家族に抱いていたその部分の負の感情も
するりと緩んで消えて行く



ひとつひとつ
丁寧にほぐして
固結びを ほどいていく

ほどくほどに
ゆるむほどに
次は容易たやす
より気が付きやすくなっていく

そして回路が拡がって
本来のわたしと
繋がりやすく なっていく


いいなと思ったら応援しよう!

kitoma
ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。