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実りがやってくる

もう秋風になっていて、日中の気温はまだ高かったりするけど通り抜ける風は心地よい。
どの季節も好きだけれど、このだんだん秋へ向かって静かに落ち着いて行く感じが何とも言えず、自分の中も夏の賑わうパワーからそれらが粛々と静まりゆくのを感じ観ると、ああやっぱり人も自然の一部なんだよなーと感じる。

食べ物もやたら美味しく、身体をクールダウンさせる料理から暖める料理へ食べたくなる物が変わるのも面白い。別に計画を立ててる訳でもないのに、急に肌寒い日などは勝手に「今日はあったかいもの食べたいなあ」となってる。そこで「いやいや、今日はキンキンに冷えたスイカが残ってるから、あれを先ず食べちゃわないと!」とか頭の中の理屈に同意さえしなければ、自然の一部であるこの身体がちゃんとその時必要なものを教えてくれて、ああそうなのかとその声(感覚)に素直に行動すれば、それがその時の自分に合っているものだし、物事がスルスルと流れていく。
小さな事かもしれないけど、こんな感覚も「全体の流れに任せる」ひとつだなーと思うし、日常はこの小さな瞬間だけだから、目の前の出来事に自分の感覚を素直に受け入れていけば、いつの間にか全体の流れにユラユラ乗っている事になるんじゃないのかな。


食欲の秋。昨日は「鯵のたたきが食べたい!」となり、いそいそと魚屋さんへ。ありがたい事に美味しい魚屋さん・・いや、魚屋は美味しくないから新鮮な魚を扱っている魚屋さんが近所にあり、お魚モードに入った時はこちらのお世話になる。今の所に住む前は普通にスーパーで買っていたけど、ここのお魚はどれもプリップリで私から見たら芸術に価するくらい。魚屋で買うと高いんじゃないかと勝手なイメージもあったけれどそんなことはなく、プリプリで好きな数だけ買えてさばいてももらえ、何なら調理法方まで教えて貰えて、海辺のお店で食べるのと変わらない物が食せるのだから。

で、お店を覗いたら・・鯵が・・ない。「アジ」と書いた札しかない。
ほ? 今日は早目に出て来たのにもうなくなっちゃったのかっ? 食べる気まんまんでいたので、おねーさんに聞いてみる。「鯵、もう無いですか?タタキにしたいんですけど、、」。おねーさんチラリとガラスケースを見てから店内に声掛ける。「お刺身用の鯵、まだある~?」「あるよー」と奥から返ってくる。やったっ!あるぞ、鯵。食べれるぞ、鯵!
奥からおにーさんが出てきて積んである箱から鯵を取り出し「大きさどれ位のがいい?」と聞いてくれる。「小さめでー」とお願いするとそれで小さいヤツなの?と思うくらいの一尾持って奥に戻る。皮も剥いでもらって三枚下ろしにされた鯵。ぷりっぷり。
ブリを一切れとシジミも買ってご満悦。ブリも一切れと言えどスーパーで買うヤツの1.5倍はあるから私には2回分となる。これも大きな半身から、その場で買う数だけ切ってくれる。もちろんぷりっぷり。ブリは塩麹で揉んで一晩置いて、キャベツと一緒に酒蒸しにしよう。

お夕飯は、ご馳走。新鮮なお魚がプロの手で美しく美味しく捌かれ、薬味に使う大葉はベランダ栽培からチョンしてこれて、これまたプリプリの身だったシジミのお味噌汁。厚揚げも地元のお豆腐屋さんのものをカリッと焼いて、炊いたカボチャもホクホク。私にとってはこういうものが何よりのご馳走に感じる。美味しいものが美味しい時に美味しく食べられる。一口食べて、ふぅっわぁ~と身体がヨロコブお食事。
それにしても、貝のお味噌汁って何であんなに美味しいんだろ。シジミに昆布一切れとちょっとのお酒、お味噌。他になーんも入れないのに、もんのすごく美味しい味になる。もう素材のコラボさまさまだなぁ。ありがたや。

そう言えば、料理も「作ろう」「上手く味付けしよう」というのがなくなってから、美味しく作れるようになった気がするなあ。以前は自分の料理あまり美味しく感じなかったもんなあ。匂いや音や感覚がその時の良い塩梅を教えてくれるから、それにお任せして作っているとちゃんと自分好みの出来上がりになってるんだよなあ。不思議。ちゃんと教えてくれる。


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今日も買い物ついでに神社へ。

虫音の輪唱が響き渡り、合間に蝉の声が入る。
神社内はすっかり整いがすんだご様子で、静かな落ち着きが広がっている。
もうあとはそのトキの訪れを待つのみかのように、大地への浸透をゆっくり深め土台の安定を深め、上になるにつれ軽やかに柔らかく優しく。整えながらも熟成を見守るひととき。

ふぅーっと香りが漂いキョロキョロしてみたら

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金木犀が秋の香りを届けてくれた。
これから街のあちらこちらで薫るね。

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椿も生まれたての花芽がいっぱい。

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これは何だろう? 花なのかな実なのかな。
今度どうなってるのか楽しみね。
それぞれのペースでみんな次のサイクルへ流れてるのね。

雨がポトポト落ちてきたので足早に動く。
社殿前でご挨拶。うん、柔らかいなあ。円が2つ横に重なって「∞」こんな形でゆっくりボヨンボヨンと伸縮してる感じね。何だろう?これから繋がるのかな? ゆっくりゆっくりこなしてる感じ。違うか。うーん。混ぜ合わせてる?融合させてる?うまい言葉が見つからないな。でも端は横に広がにつれ細くなりそのまま全てと繋がってる。

石畳に雨跡が増えてきたから早く帰ろ。
また来まーすとペコンと一礼し歩き始めると「実りだなー」と飛んできた。
そうですねえ。実りですね。何が実るんでしょうかねぇ。楽しみですね。と答えながら顔が緩む。実りかあー。

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あちらこちらに秋のお届け物が見え始めてる。入道雲は見かけなくなったし、お陽さまが沈むのもはやい。

暦の切り替えや季節の変わり目は「変わってきてるなー」と感じやすい。
でも本当は瞬間瞬間すべてがうつろい変わっている。時間が過去から未来へ流れているというのを採用しなければ、その瞬間のものがすべてだ。自分も。


その瞬間 を、過去にも未来にも引っ張られず日常を在りたいなと思う。その瞬間の輝きを見逃さないように。
それは記憶喪失になるということではなく、先々を何も考えないフワフワさんになるわけでもなく、その瞬間現れてくるものであれるように。
成ろうとするでもなく、在ろうとするでもなく、その瞬間瞬間大いなる流れへダイブする。

そう在る日常であったとき、何が現れてくるんだろう。どんなジブンを観れるんだろう。

変化という名の愉しみは
つきない


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kitoma
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