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やらなくてもいいという安心感

その 真ん中の暖かさ静けさに任せているとき

ああ 私がやらなくてもいいんだ
頑張って考えて 何とかやりくりして
どうなるか分からない不安を抱えて
これでいいのかも分からないで
でもやらなくちゃいけない
進まなければいけない
そんな思いは もうしなくていいんだ

そう ちからが抜けた



何もしなくていいという事ではなくて
眠り姫でいて誰かが起こしてくれたら
その時全てが美しく出来上がっているとか
そんなお話ではなくて

自分が 自分で やろうと やらなきゃと
思考をフル活動させて 無理して頑張って
我が道は我が切り開いて進んで行くーと
そうやろうとしなくても

その暖かさ静けさの中で整え
本来のじぶんへ向いていれば
やる事はその時ちゃんと目の前にあって
それをあれこれ考えずに
その時のやれる限りを尽くしてやればいい

さすればそれは
次のナニカへ繋がり それを届けてくれる



目の前にあるやる事は
お掃除することかもしれないし
誰かと会うことかもしれないし
身体を休めることかもしれない

些細と思える何気ない事かもしれないけれど

静けさの中でそれらを感じてみれば

その当たり前すぎる些細なことは
わたしを生かしてくれることであり
それらによって 生かされて来て
いまがある


自分でやらなくていいんだ という
その安心感 力の抜け具合

どれだけその 思い が
自分を縛り付けて来たんだろう

頑張らなければ 生きていけない

自分でやらなければ 上手く行かなくては
幸せになれない

そんな言葉に
無意識に囚われ囲まれていたのだと
チカラが緩んで 初めて気づく



言葉尻だけ掴めば
自分でやらなくていいなんて
怠けているとか逃げているとか甘えてるとか
都合いい考えとか
そんな風に捉えがちだけど

ニセモノのエゴ自我である自分 で
あたかも全てが自分が
コントロール出来るかのように
人生切り開いて行ける という
そんなかつての「思い」に取り込まれた
「自分でやる」はやらなくてもいいんだよ
ということ

それはそもそもが外向き意識がスタートだから
もう今はそのやり方は
隔たりや障害が出て
今まで以上に進みづらくなる

チカラ技もいらないし
無理難題突破もいらない
外側とのタタカイもいらない



情報として知識として知っても
実際じぶんで内側へベクトルを向けて
自分の真ん中で静けさに居なければ
理解は訪れないし 腑にも落ちない

ただ「こうしたら良くなるんだよ」という
エゴ自我の声にすり替えられて
また知識の持ち運びでの満足へと
いつの間にか変わっているだけ

そしてこれからは
その違和感に自分が耐えられなくなってくる

軽くなって
ホントウも感じやすくなってくるから
自分の中の違和感や誤魔化しも
今まで以上にキャッチ出来てしまって
その 訳の分からなさ に
耐えられなくなってくる

そうやって
本来のじぶんへ 内在のほうへ
意識を向けるように流れていく



ほんらいのじぶんのあたたかさ
静けさの安らぎは
もともと あなたの わたしの中に
いつもあって いまもあって
そして
いつでも戻れるように なっている

扉が開いている のではなくて
扉なんて ない



扉も囲いもなく
いつも そこに ある



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kitoma
ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。