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ウチなるジリツ peace_vol.86
「自立」という言葉の意味付けを、私は狭く捉えてたのかもしれない。
経済的な自立と精神的な自立。「自立」と言われて今までは単純にこれしか思い浮かばなかった。
経済的は自分を自らの働きで賄えるようになること。精神的は、親や家族その他身近な人達との関わりで依存性が薄れていくこと。と言うより、そもそも自立についてなんてあまり考えたことがなかった。経済的精神的にも、割合早くいつの間にかそうなっていたから。
なぜだか分からないけど、何の脈略もなく突然「自立」についてポーンと飛んできた。
ああ、自立というのは、お金でも親離れでもなく、自分の中の事なのか。今までそうだと思っていたのは外側世界のあれこれで。
そうではなくて、本来のジブンで身体を使って生ききるという覚悟を腹に据えるということか。
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ここで言う「本来のジブン」はいつも表現しているものとはちょっと趣が違っていて、もう少し違った角度からのものになります。
別の言い方をすれば「自分で生きるのを諦める」ということ。ここでの自分というのは自我(エゴ/小我)の自分。この身体を自分と思い、自分がコントロールしてこの人生を生きているとしているもの。
自分が切り開いてやりたい事をやり、欲しいものを得、幸せになろうとする努力。外側の世界を現実とし、そこでいかにより良く幸せに生きられるかという視点。
"自分で生きるのを諦める"とは、「自分」を諦めるということ。人生を諦めるとかそんなのではなく、「自分が人生を生きていく」を手放すということ。
自分という個体が存在し、社会や世界という現象の中で生きているというストーリーから手を引く。
すべてをこの大いなる流れにお任せするということ。
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文字を書くのも自我で文字を読むのも自我ですから、言葉で現すというのは難しいものだなあと感じます。
「全てを流れに任せて」を自我は都合よく「流れにのっていれば、この目の前の困難な出来事が上手くいくのか」と思ったりもします。「そのように自分が生きよう」とします。「自分が」生きようとします。
そうではないのです。
「自分が」を諦めるのです。手放すのです。
身体という物質のなかに自分というものがそれぞれ存在していて、個体として人生を外側現象の中で生きているという幻想を見抜くのです。
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敢えて身体をひとつの括りとして捉えるならば、ここで言う「本来のジブン」とは源であるジブンを覚えている部分(部分もなにもないのですが)、繋がっている部分、思い出すためのガイド的役割もする部分。
安らかさ、穏やかさ、安心感、人は誰でも奥深くに既に在るもの。誰でも。もれなく。
本来のジブンで生きるとは、幻想で自ら遊ぶのを手を引き、幻想と解ったうえで、ぜんたいの一部としてその流れの中で生きる。個々の特性特質を生かしてその現れを体現する。
その人にしか現せない輝きを放つ。
放とうとしなくても、放たれてしまうのです。
それが流れだから。
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なぜ「自立」が飛んできたのかは分かりませんが、どうやら外側世界の捉え方でしか観てなかったようです。
今日はぜんたいの「いのち」の圧倒さを感じた日でもありました。
樹々や植物、その他すべてのものの生命力というか「いのち」の動きのパワフルさそのものが圧巻だったのです。
その流れに溶け込むと、いのちである歓び、それぞれがそれぞれのカタチで生き生きと現れ、その瞬間を生ききっている。そんなものを全身で感じたのでした。
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ナニカが変わったなーと感じます。
この「いのち」の輝きパワフルさに触れることで、それぞれが「いま」「ここ」というものへの思い出しに後押しがあるのかもしれません。
人それぞれその時々の視点立ち位置が違いますが、外側の現象が全てとしている時は、それに対しての疑念のようなものが湧いてきたり。内観を進めてきている時は大きな振るい出しが湧いてきたり。少しの腹据えがある時は幻想への揺さぶりが湧いてきたり。
そして覚悟を決めた時には「本当にそれでいいのですか」と湧いてきたり。
どのような状態でも優劣はなく間違いも正しさもなく。それを「思った」という思考の現れがあっただけだと気付くかどうかの事だけで。
それすらも流れの一部であるのですから。
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本来の自らを思い出す
そんなものが
加速し始めたのかもしれません
なにが訪れるのか
楽しみです
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