思い で創られている日常
7時前に目が覚めて、建物に反射して輝く朝焼けがとても綺麗で。
「朝散歩に出掛けたい!」と急に思いが訪れ、「帰ってきたら朝風呂気持ちいいだろな~」と続く。
昨晩は何かしらんけどお風呂入るタイミングを逃して睡魔が勝ち、そして何故だか数日前から「朝風呂入りたいなー」と思っており。
朝シャワーは時々やるけれど、ゆっくり湯船に浸かるとその後何もしたくなくなるので私には結構ハードル高く、休日でもほぼやった記憶あらず。
コーヒー淹れて飲みながら「まだ外寒いよ。早いよ。朝風呂なんて入ったら今日一日つぶれるよ!」と頭が騒くのを遠くで聞いてみたりして。
よしっ!と完全お散歩バージョンに着替え、いつもはお買い物するかもだから持って行く物もいらんなーと、財布代わりの交通系ICカードとミニタオルだけ持ち、顔も洗わず、ピンピン跳ねてる髪もどーせ帽子かぶるからいいやとそのまんまで7時半にご出発。
朝焼けはもう過ぎ去ってしまったけれど、澄んだ空気が気持ちよく、てきとーにテクテク歩きだす。
犬の散歩してる人。走ってる人。歩いてる人。
まだ動き出していない街中は静まっていて、その中を自分も含めたほんの少しだけが「動いている」ような不思議な感覚。
それでも車は結構走っていたので一本中道に入り、いつも通っている路なのにいつもと違うのを楽しみながらテクテク歩く。
スーパーでは何人かがお掃除してたり、家の前の水打ちしてたり。路地脇の草花たちもまだ静か。人声も聞こえてこない。不思議な世界。
大きめの公園を突っ切ろうと足を踏み入れると、日中は見られないランナーさん達が走っていたり。樹々も静か。みんな静か。
まだ動いていない街中歩くのがこんなに心地よいとは。
思うままグルグル歩いて、家に戻ったのは9時少し前。まだ向かいのお店も開いていない。
思考のチャチャが入る前に湯船にお湯ため始め、その間に簡略お掃除と洗濯機まわして。
冷えた身体でチャポンとつかったお風呂の気持ちのいいことったら! なんなら温泉香りの入浴剤なんぞにしてみたりして。
「朝風呂」って言葉を取っ払っちゃえば、やってることは単にお風呂入ってるだけなのよねぇ。なーんか"特別感"を持っていたみたい。
あがる頃には洗濯物も終わっていて。
「食事の用意」とフと思い。でも朝食べない私にはまだチョイ時間早いしお腹もそれ程空いてないよ?と思いつつも何となく支度を始める。
パンがいいな。菜花焼いて半分折の目玉焼きとハムをはさもう。あと暖かいスープ飲みたいなあ。お野菜と豆乳でいっか。
洗濯物干したりしながら何だかんだで食べ始めたのは11時頃。あら、いつもとそれ程変わらない時間ねー。
洗い物まで全部済ませてふぅーと落ち着いた頃には外は雨が降り始めていて丁度0:00。
やりたかったこと全部出来ちゃった。
やりたいなーと条件付けない(理由なし)で思ったことは、取り敢えずやってみると、思っているよりヨキに動くようです。
頭の「思い」の幅は狭いのです。
こうなったらやりたい、とかいうやつではなく、ピン!と来たときに(出来ることは)すぐやってみる。
今日やった朝散歩や朝風呂なんて、大したことじゃありません。歩いたのとお風呂入っただけですから。文字で書けば単なる日常です。
それでも、理屈抜きでやりたいと感じたことをやると、「満足」や「充足感」が訪れます。結果なんてどうでもいいのです。「やった、やれた」事が嬉しいのです。
と同時に、「今までやれなかった(やらなかった)」理由のようなものが自分の中に浮かび上がってきます。
朝散歩はメンドクサイのと今だと寒いのと、どうせ出掛けるなら買い物も一緒にして一回で済ませたいという思惑と。
朝風呂はその後の予定が(メンドクサクなって)出来なくなる、何となく朝からお風呂入るのは特別感があり憚れる、などなど思ってたんだなーと感じましたし、それによりどれだけメンドクサガリ屋なんだ!と笑い、朝風呂ったって入ってしまえば単なる入浴じゃん!と特別視してたアホさに笑い。
もう少し踏み込めば。
どちらもやった後の疲労感とかを心配し、その後の予定や行動に支障をきたすのではないか、という隠れた理由「恐れ」がみえてきます。
なぜそこに辿り着くかと言うと、やらないやりたくないの裏には「不安や恐れ」が必ず少しでもあるからです。何もなければチャッチャと喜んでやってるハズですから。
で、そういった恐れやらの尻尾を掴んだら、「アホやったな~。大丈夫じゃん!」と笑い飛ばしてしまえばいいのです。
そんな不安や恐れを持っていたのかと思う必要すらなく、理由をあれこれ探す必要もなく、「あー、こんなのあったのか。知らなかったけどもういらなーい」とサヨナラすればいいのです。
多分どこかで「朝風呂入るなんて贅沢な」と言われたことがあったとか、そんなもう覚えてさえいない事で隠れ持ち続けていた「思い」です。
これからは朝風呂入りたくなったら入ればいいし、朝散歩行きたくなったら行けばいい。どちらもご機嫌さんで気持ちよくなることが分かったのですから。
日常というのは些細な事の連続です。日々繰り返し行うことなので習慣化し、まるで「当たり前」のように思えてきます。
「当たり前でつまらない」としているのは、新しもの好きの自我さんです。いつも同じで、これじゃダメだと言ってきます。もっと良くしなければと。
かと思えばちょっと体調が悪いとかの「新しい」ものがやって来てもそれはヨシとせず、「さあ大変だ。どうにかせねば」とフル活動始めるのも自我さんです。元気なもんです。
当たり前の日常のなかに、良いと思えることもこれじゃダメだと思えることも沢山たくさんあります。
「思い」は自分で操作出来ません。
現れては消えていくものです。
自分の ものではありません。
いま に戻って目の前の些細な日常をやるとき、「当たり前」は消えていきます。
なに一つ同じことが繰り返されてることのないこの世界で「当たり前なんてなかった」と思い知らされます。
「当たり前」としてたのは「思い」だったと気付かされます。
「思い」は いま に居られないものです。
日々たくさんの経験をしてたくさんの「思い」を持ってそれらにジャッジして良かった悪かったと喜んだり喜ばなかったりしているのが日常です。
そしてそれは時間と共に流れているものと「思って」います。だから昨日があり明日があります。明日こそ、明日こそと何かヨキ事があるのではないかと進んでいきます。
いままでこんなに良かったのに
てはなくて、
いま の目の前にそれはあります。
明日はきっともっとよくなる
ではなくて、
いま の目の前にそれはあります。
いま にしかないのです。
そして
「思い」は
自分ではないのです。
あなたではないのです。
だから
いまを そのまんま
思いも 感情も 言葉も
何もいれずに
みてください
感じようともせずに
つかもうともせずに