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彼らの種はどんな華を咲かせるのだろう

梅雨が明けて酷暑がやって来て 週末買い出しに早目の時間に出たのだけど もう充分過ぎるくらいの暑さになっていて サウナに入った時のあの乾燥した空気を吸い込んだ時の具合を外に出た途端感じて おぉー巨大な自然サウナになっとるなーと思いながら アスファルトでない所を選びながら歩いてた

朝イチに干した洗濯物が昼にはもう乾いていて これだけは暑くて助かるな~とか思いながら ちょっと触れてしまった物干し竿の熱さに驚いて あららこれは干されてる洗濯物も暑すぎて可哀そうねぇとか思ってみたり



買い出し前に立ち寄ったいつもの神社は 今日はヒカリの日だったようで 木漏れ日も直接の太陽もヒカリがもう変わっていて 夏の痛いくらいの太陽なのだけど そこには何故か優しさが入っていて そしてとても柔らかく澄んでいた



つい数日前に訪れた時は とどまりではないけれどそこでその場で染み入らせ染み込んでいるのを待っている感じ というようだったのに
その静なる重さのようなものが全く無くて 吹っ切れたような 通り抜けたような そんな軽やかさと 笑い声が聴こえるかのような愉し気な感じが辺りをおおっていた

愉しそうですねぇ~と本殿に挨拶しながらみていると うんうんとでも言っているかのような朗らかな感じで ああオヨロコビなんだなあーと こちらも愉快な気分をいただく



ああそうか
子供というのは
いま ここにいて
今目の前の事だけに集中してるけれど

これから先の彼ら彼女らが生き行く世界に
合った何かを携えて生れ出て来ていて
そしてそれらは
今の我々大人には
思い及ばない事なのかもしれないな

だから
いま だからと言って
大人自身の思い及ぶ範囲での未来予想で
彼ら彼女らを精一杯育もうとしても
その想い描ける範囲とは違う世界だから
そこだけに頼ってしまうと
そもそもの根本が
生まれ持ってきているものが違うんだよ
というそもそもを見落として気が付かなくて
互いがズレてしまうことも
あるのかもしれないなあ

それは何も
今目の前の彼ら彼女らだから
そうなのではなくて
我々の時もそうだったはずで
ただそこに時代というものの
異なりはあるし
今よりもずっと封鎖的ではあったけれど
それでも起きている巡りはおんなじ事よね

でもって
自分達がそうだったから
そうならないようにとやっていても
彼ら彼女らに埋め込まれている
これからの時代感は
我々が持って生まれて来たものでは
思い及ばない世界なのかもしれないのだから
  現に自分たちがそうだったのだから
だから
その及ばない届かないところまでを
今の我々を押しつけたりしないで
その先彼ら彼女らが生きてる世界は
知り及ばない世界なのかもしれないと
そういった可能性を認めて
そこはもうそういうものなのだと
おおいなるものに託すかのように
彼ら彼女らという存在を
そういった未来を生きる存在として
我々自身が自分の中で認めるということが
案外ダイジなのかもしれないね



どうしても
自分というものを基準にするしか
物事を見ることは出来ないのだけど

けれどその基準だけが
世界なのではなくて
むしろそれはとても狭いもので
その狭い世界を 絶対 としてしまわないで

自分が生きて来た経験 は大切にして
だけど
それだけが基準ではない ということも
どこかで知っていれば

目の前にいる
我々には知り得ない未来を生きる
彼ら彼女らの その知り得ない部分を
想像は出来ないとしても
思いやることは出来るし
寄り添う事は出来るのだから

そして 今までの時代というものを
生きて来た経験 は
伝えるということが出来て
それは生きることの楽しさを伝える
という事でもあるから
それには 自分が楽しく生きている
というそのものが大切で
それだけが伝えられることであって

そこから それらをエッセンスの1つとして
彼ら彼女らが
自らの手で その携えているものらを
開花させていければいいね



いま目の前にいる
この小さき者たちのパワーは
キラキラととても輝いていて

「子供だから」というくくりを外せば

そこにはもう
我々には知り及ばない
可能性 という名の宝箱で

どこまでその新たな輝きを
見ることが出来るのかは分からないけれど

けれど

その未知なる輝きを
目いっぱい携えた可能性と輝きのかたまり
今こうやって同じトキを居られるというのは

もうそれだけで
じゅーぶん幸せ なんだなー



いまみえているものではないけれど
そのみえないナニカで
幸せいっぱいになれる幸せ

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kitoma
ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。