自分を作っているものの見直しタイム
無農薬農家さんから買った
ホーリーバジルの乾燥させたものを
新聞紙にくるんだまま部屋に置いておいたら
部屋の空気が変わっていて
香り というものは
見えないからこそだけれど
そのパワーをつくづく感じる
そして この身体というものの
センサーの素晴らしさ
五感というものは
この世界を楽しむためのスペシャルで
当たり前に使っているこの身体は
不可思議でとーってもよく出来た
魔法のようなもの
きっと この身体のお役目おえた時に
その素晴らしさを実感するのでしょう
***
先週末たて続きに無農薬野菜などに触れたからか
食に関することが飛んできていて
「食」単独ではなく 食べることは
イコール身体を作ることであり つまりは
生きること へ繋がっていきます
食に関すること だけれども
もっと細かく言うと
「添加物多いよねー」って話で
で 添加物多いのもまあアレですが
日本はそれが分かりにくくなっているとか
気にしてない人が多いとかそんなこんなで
私が気にするようになったのは
数年前に体調を崩してからで
私は一気に収集する気があるので
その時に身体に関するあれこれを
広く浅くですが知るようになりました
これらは気にし始めるとキリがなくて
農薬気にしても 実は種からの話だったり
グルテン調べると醤油まで入っているから
厳密にやると食べるもの無くなってしまうとか
食ばかり気にしてると
結構皮膚からの吸収もあって
衣類や洗剤なども見直さなきゃとか
正直調べ始めた当初は
いったい何に囲まれて生活してるんだと
思ってみたりしましたが 今はそれらを経て
てきとーにやれる範囲でやっています
余計なものはなるべく身体に入れない
としてから結構経っているので
今は身体に合わないものが入ると
お腹がゆるくなったりドンヨリしたり
その後自分がキツクなるので食べませんし
そもそも 食べたい という気がなくなり
別のもので代用できるんじゃ?と
そちらを模索したりしています
流通というものに乗っている以上
腐食させない為の何か が入るのは仕方ないですし
見栄えをよくする為の何か や
味にインパクトを与えるための何か や
本物に似せる為に模される何か など様々です
何がどーだか詳しくは分かりませんが
ただ それらを長年蓄積させたために
自分の体の流通ともいえる循環が滞り
本来身体に備わっている自然治癒力が衰えて
身体がバグってしまったのは確かなので
じゃあ
身体を元の状態に戻すにはどうすれば?
という視点からあれこれ試して実体験してみて
少しずつ身体の中の不要なものを出していき
感覚 というものも澄んできたような
そんな感じもします
例えば近所で売っているお団子は
何も入っていないので 買う時に
「3時間以内に食べてね」と言われます
どんどん固くなるからです
それが自然だからです
ならば
数日経ってもまだ柔らかいお団子は
何が入っているのかと 疑問が湧いてきます
お団子は柔らかいもの というのが当たり前ではなく
直ぐに固くなっていく が自然なのですが
いつのまにかその 自然であり当たり前 が
別の 当たり前 に入れ替わってしまっていて
そうでなければ欲しくない
となっているようです
よーくよーく考えれば分かる事で
それこそ江戸時代の生活を垣間見てみれば
当時の 知恵 で工夫しているものと
今のそうでないものは見分けがつくかと思います
ある種 その方が心地いい が
行き過ぎて ねじれて形を変えてしまった
とも言えるかもしれません
我々人間は自然の一部である
という大前提があって
自然な形で心地よいもの であれば
自然の一部であるこの身体も
負担がかからないでしょう
「時短」という言葉が流行った時に
家事を時短させるあれこれが出ましたが
それらは確かに便利でしたが そうでなくても
本来のもの を工夫という知恵でやれば
結局時短になっている事も多いのです
かと言って洗濯機をなくせとか言うのではなく
その洗剤や芳香剤は必要ですか という疑問を
自分に投げかけてみる とか
ダシの素は楽だけど前の晩に
煮干し水に浸けとくだけで十分なんよ とか
これがなきゃ や これが当たり前 を
いま一度見直してみる機会が訪れているのでは
と感じます
そうすると
背後のさまざまが浮き上がってきますが
今まではそれでよかったわけで
その上で いまの自分にマッチするのは何か と
自分の身体に聞いて 心に聞いて
自分というものも変わるから
その時々の自分 に聞いて
日常のさまざま も
そんな風に変わっていくのかなあ と
感じたりしています
いい風が 吹いています