何をも通さず
バスの中で隣に立った小学5~6年生位の男の子二人が静かに会話していて 聞くともなしに聞こえてくるそれを聞いていたら 「それって環境に優しいよね」という言葉が飛んで来た
私より背が低いしさっき見た時小学生くらいと認識したんだけど その当たり前のように出てくる言葉に へ? となりよくよく耳を傾けると 片方の子がしているデジタル腕時計の電池の話らしい
いや ちゃんと聞いても電池の何が環境に優しいのかサッパリ分からんのだけどそのまま会話は流れて 次は東で起きているミサイルの話を始め「あれは 駄目だよね」と言っている
うん、そうなんだけど 確かに駄目だというのには賛成なのだけど それにしてもリアルタイムな話だよね?とか思っていたら
「この後 どこか美味しい店とかある?」
「うーん、、今日は用事あるからやめとく」
と言っとる しかも子供アルアルのやかましく喋るとかでもなく 静かに淡々と二人が会話しとる
私の思考がほぼ停止状態になってる頃彼らがバスを降りて行くのを見送りながら
・・・あなた達は見かけは子供だけど実はサラリーマンですか?青年実業家ですか?もしくはおっさんですか? と私の心の中では思いっきり突っ込みの言葉が発動されていた
本当に最近 子供と言う生き物の会話を間近に聞くと 時代は変わったと思うし 自分の記憶の中にあるその頃を基準にしちゃーあかんと心から思う
その子達も見た感じの格好も小学生だし今どきの子だなーとは思うけど 自分のその頃を思い出せば「環境に優しい」だなんて思いもしないし言葉すら知らなかったんじゃなかろーかと言うほど物考えずに遊んでるだけだったような気がする
何なんですか この 大人のようなお子様たちは しかも嫌味もなくあまりにも自然ないつもの会話のご様子で これが今の小学生くらいの標準なのでしょーか
で こういった会話は 子供たちだけの時にキャッチ出来るものであって 一緒に家族やら何やら大人が入っていると こういった面白いものはあまり出くわさない
でもそれってちょっと観方変えると 我々大人が相手に対して「子供だから」「子供と話している」という前提で相対してるからなんじゃないのかしらんと思ってみたりする
だから子供も 子供 という役割の状態での言葉を出し会話をする
子供たちの方は 大人が自分たちをどう見てるか分かってるから
どう答えるのがその場が上手く収まるのか知ってるから 「子供です」という立場で振舞っているんじゃなかろーか
これって何も対子供だけのことではなくて 人は誰しも相手に対して自分の認識した基準で相対するから 先生なら先生 お店の人ならお店の人 ほぼ100%「前提」を元に接していて 逆にそうでなければ成り立たないのが世間や社会といったものなんだろうけど
けど よーく考えてみれば その「前提」って 自分の中にある記憶というストックから一番近そうなのを引っ張り出して取りあえず当てはめているだけであって 本来の 相手 そのものではない
当たり前の事だけど
けれど 当たり前すぎて忘れちゃっていて 目の前のその人は「自分の中の前提でつけている役割を担っている人」では ない
忘れちゃうんだよなー
だって 相手からもそうされている(と思っている)から
肩書やら役割やら意味付けやら
そういった後付けのものらを
ぜーんぶ取っ払って
目の前の 事実 だけで
目の前の人と相対するとき
そのとき
今までとは違うセカイが
目の前に繰り広げられる
それは
準備も何も必要なく
そうしたときは
そうしたものが 現れる
一瞬で
世界は変わる