本の中の物語 現実という物語
図書館で予約していた本が届いたと連絡があり
取りに行ったら小説本だった
最近の小説なんてもう結構な年数読んでいない
はて 何でこの本予約したんだろう?とか思いながら読み始めたら久しぶりの一気読みで
気が付いたら3時間が経っていた
親と離れて育った若い主人公が
その親の死をきっかけに色んな出来事があり
それまで抱いていた親への事実が
実は違っていて全てがひっくり返される
みたいな内容だった
どれ位前に予約したかも
何でこの本読みたかったのかも
なにでこの本知ったかも
全く覚えていないのだけれど
本というのはちゃんと必要なタイミングで
手元に届くとそう思っているので
でもってそーいう読み方をするので
この本は何を伝えに来てくれたんだろう?
と それを感じていた
この本に書かれていた事は
私も実際経験していて全てがひっくり返り
親というものとの関係性も変わっている
小説の中の出来事ではなく
実際起こることだと知っている
それは私だけではなく
全ての人に起こり得ることだとも知っている
予約数もすごかったから
多分人気の本だったのだろうけど
こういう形で沢山の人が触れるというのは
素敵だなあと思う
こうやって
「種」にノックされていく
ただ興味が湧いて読んだ小説で
読み終わって返して終わりだと思うだろうけど
これもひとつのアプローチで
自分の中の それ に
ちゃんと働きかけている
日常のあらゆることがそうで
そうやって流れている
今まで生きて来た中の記憶というものが
ひとつひとつひっくり返されて
明らかになっていきます
そうである と思っていたものが
そうではなかった と知ることになります
それは
これから起きるであろう様々な出来事に
そうではないかもしれない という
緩やかな視点の場をもたせてくれます
それまでだったら
こうだからこう と自分特有の視点で
がっつり固め握りしめていたものが
段々とゆるんできます
それでも大丈夫なんだと
思わせてくれます
それは同時に
自分はこう というものも
ゆるませてくれます
結局は
外側で起きていると思えることも
内側で起きていると思えることも
自分というものを緩ませるために
はたらきかけられていて
自分で自分を剥がして行く
手放して行く 諦めていく
そんなものらを
サポートしてくれているようです
ただこれらも
そういう時代環境で育ってきた年代
無意識に身につけられてきた年代
そういった者たちへの出来事であって
若くなればなるほどもう根本が違うので
自分に役に立ったからと
違う世代にそれを押しつけても
それはもう過去の産物でしかありません
じゃあなんで と
思うかもしれませんが
いまの小さなお子たちは
この一見ひどいともみえる
ひっくり返し物語を体験することは出来ません
標準装備がもう違うからですが
彼らはもっと別視点での経験が
待っている事でしょう
取り敢えず我々の世代は
この重きを軽やかさへ
転換させねばならんので
自我が~とかエゴが~とか
やっとるわけです
させねばならん と言いましたが
それもそう望むのならば なので
ただ おそらく今そういう状態にある人は
そういった種を何らかの形で持っていて
発芽を待っているのではないかと
そう感じるのです
核心へ近くなればなるほど
見たくないものを見ることになり
触れたくないものに
触れることになるかもしれません
でも
その 見たくないもの や
触れたくないもの は
それまでの自分の中の事実であり
これからの事実 ではないかもしれません
そして
そもそもが その 見たくないもの も
触れたくないもの も 思い です
記憶であり かつてのもの です
自分の中の事実であろうと
記憶であり感情であり 思い です
自分というものは
思い で出来上がっています
思い で縛っています
思い で固めています
じゃあそれがゆるんだ時
何が起こるんでしょうか?