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いま は 軽くてやわらかで

昨日何してかも思い出せない(笑)。なんだかなーと思いますが、そのくらい瞬間瞬間の凝縮がすごくて変化のスピードが速いとも言えるのかもしれません。

もう記憶喪失のような日々は当たり前になりつつあるので気にすることもなく。
もちろん予定や大切だと感じることはメモ残しておくなり何なりはしてますが、覚えてなくてもその時々ちゃんと必要なことは訪れるし、思い出すようになっているようです。

何日にどこ行ってあれとこれととその時予定を立てて、じゃあこうした方がいいかなとかその時考えていても、直前に「あ、こうしよう」ともっと別のアイデア閃いてみたり。

いついつ迄にという期限つきの予定を忘れていても、前日とかに何か他の事がきっかけで「明日だー」となってみたり。まるでタイマーが仕掛けられてるかのようで面白いです。

そんなのが繰り返されると「覚えてなくても平気なのね」となり、ずーっと「あの日にこれやらなくちゃ」とか思うこともなく、思っているとそちらにエネルギー注いじゃうから、注がなくなったぶん、もっと目の前の出来事に目を向けられたり出来るようです。


これはよく書いてる「思い込みを外す」にも繋がって。
例えば昨日誰かに言われた一言が引っ掛かったとして。それがずーっと頭から離れないと、ずーっとそこに自分のエネルギーを注ぎ続けてると同じことなんで、目の前に楽しげなことがあってもそれに気が付く余裕(エネルギー)がなくなっちゃうんですね。それはモッタイナイ。

だから、思考(思い)のループにはまってるなーと気が付いたら、一旦止まってお茶飲んだりして自分の真ん中戻って。で、何か別の事してみたりで切り替えて「いま」に戻ってくる。

思い込みはよろしくないですよ~過去の余計なものですよ~ってのもありますが、別に思考(思う事)自体がワルモノではないんで、"エネルギー"という視点から観れば、そんなのが自分というものにその時起きてる感じです。


いにしえから色んな教えがあって。
主に宗教的なものや精神哲学的なものが多いのかもしれませんが。
「真実」というものは変わらないから、それぞれの立場で様々な角度から語られてる訳ですが、もうそれすらも古くなってきてるのかなーと感じたりします。

みんなが様々なルートで同じ方向へ向かっているというのは変わらないし、行き着く先も変わらないのだろうけれど「これが」とか「こう在ることが」というようなものが、もう今の変化のスピードに合ってない感覚です。

それらが語られた頃はそれが全てだったのでしょうが、今は門戸が開かれたと言うか、もともと開かれてたんだけどそれが感覚として解るようになってきたと言うか。

修行的なものが好きな人は宗教的観点からとかがベストだと感じるでしょうし、宇宙的なものが好きであればバシャールとか天使とかからのメッセージが支えになってるのかもしれませんし。で、どこかで別のものを「違うんじゃない」と思ってみてたりして。



特に昭和世代とかは「これこそは!」とか一回掴むと、それまっしぐらになっちゃうのかもしれません。
でも時代は変わっていて。

たぶん、その「これこそは!」だけでやらんでも良いのだと思います。もっと若い世代の風を感じてみて取り入れたりしてみたり、その自由で軽い観点を感じたり。

そうすると、「これでいいんじゃないのかな」と思っていたものに、更に別のエッセンスが加えられて、もっと別角度からだったり、別感覚の視点で同じものを感じられるようになるかもしれません。

目的地は変わらなくても、あっちに見える景色も素敵みたいね、と そんな感じです。
そしてそっちのコースも通ってみたら、今度はまた違うコースが目に入ったりして。

そうやって色んなコースをポンポン飛んでるうちに多角的視野でも観れるようになり、「これこそは!」で砂利道行かんでも大丈夫なのかもーって思えてくるかもしれません。

楽に進んでいいのだと。

楽することは
ワルイ事ではないのだと。


こんなに簡単でいいの?

こんなに楽していいの?

いまの軽さにフワリと乗ってみると
これまでの重さが
嘘のように感じるかもしれません

それくらい
いまは軽いのです


今までは何だったんだと
笑っちゃうかもしれません

笑えちゃったら
こっちのもんです

そのまま笑いながら

ふわり ひらり と
ゆるやかに 軽やかに

いま を楽しんで

それぞれのペースで
タイミングで

自然の流れが

運んでくれます


色鮮やかな

ステキな いま です


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kitoma
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