くるっと逆にしてみれば
何か自分が思ったり考えたりする「言葉」が
出てくる前に身体感覚があって
確かにそれに紐づいて
過去の経験から近しいものが
ポンッと現れてくるのだけど
けど
その身体感覚の前に
既に 事は起こっているでしょう?
起きた事によって
身体感覚も呼び起こされて
その後「自分がやった」「自分が思った」
という言葉付けでしょう?
先ず
事が起きているでしょう?
そこにはまだ
感覚も 言葉も
ついていないでしょう?
起きている事(事実)だけ観たら
「私がやった」「私が思った」とかは
なーんもないでしょう?
いま日常で
当たり前感覚として採用しているのは
逆からになっている って
分かるかしら?
そもそもの起点が逆なの
で
その起点を「自分」としているから
全てはそこからの視点なの
起点があるから
距離も時間も生まれるでしょう?
今はその
これまでの当たり前さ が
崩されてきているの
そこを受け入れ始めた人から
視点視座の転換が起こり始めて
そこに関連することに連鎖していって
色々に展開してっている
それも
もの凄い速さで
ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。