分からんままで
わかろうとしないこと。
知ろうとしないこと。
成そうとしないこと。
「自我」がお騒ぎの時は
ちょっと難しく感じてしまう、これら。
分からなくていい。
知らなくていい。
成さなくていい。
「自我の自分」がこれを読むと
「え?何言ってんの?」となる。たぶん。
分からないままでいる。
知らないままでいる。
成さないままでいる。
でも文字を読む限り「自我」であり「自分」なのだから、仕方ない。
どこまでフィルター通さず受け取れるか。
分かってなければいけないことなんて、ない。
知ってなければいけないことなんて、ない。
やらなきゃいけないことなんて、ない。
さぁ、自我が騒ぎ出す。
「え?どうなるか分からないんだよ?」
「何が起こるか心配じゃない!」
「計画通りに進めなきゃ!」
そうそ、ずーっと聞いてきたよ、その言葉。
だから今まで大事にならんように、あれやこれや手を尽くしてみたり。
やりたくないことでも「一般的にそうだから」とやってみたり。
でも途中から雲行き怪しくなったり、思わぬ方向へ行ってしまったり、そんな時にはもうその言葉の主は何処かに行っちゃってたよね?
そして途方に暮れてるときにまたやって来て
「ほらね、大変になったでしょ? もっと大変にならないように、次はこれやっとかなきゃね。どーなるか分からないんだから!」とまた次のを持って来て。
そしてちょっと良くなったりすると
「ほらね。思った通りに出来たでしょ。」と得意気に言って「じゃあ、次これね。」と。
あらゆる全ては "ご縁" で紡がれ流れていて、何ひとつとして「自分が」成し得たものなんてなかったのだと、ちょっと考えてみれば解ります。
人間だけでなく、森羅万象すべてです。
あらゆるすべてが「ご縁」で流れ起きてるだけなのに、なぜそこで人間だけが「思い通りにしたい」「思い通りに出来ている」と思えるのでしょう。
思い通りに
ならないかもしれないから、不安。
なって欲しいから、ガマン。
ならなかったから、クルシミ。
これ、
始めっから「思い通りになんてなってない」って分かっちゃえば、ぜーんぶ消えちゃいます。
思い通りに なんて
ならんですよー。
だって どーなるかだなんて
誰にも分からんのですから!
それを「分かろう」とするから
そりゃー、クルシクもなりますわなー
分からん のが理なんですから
分からないまま でいいんです
知りようがない んですから
知らないまま でいいんです
分かってなければ
知ってなければ
自分で成さねば
これら全ては 自我 のハタラキであり
本来の自分 ではありません
そして
これらの後には
分かってなければ と思う
知ってなければ と思う
自分で成さねば と思う
と 「思い」が付いていて
「思い」は思考であり 湧いては消えるもので
単に身体に纏う反射的な働きのひとつ
自分のものでもありません
自分の真ん中 本来の自分
を感じて安らぐとき
そこに
分からなくちゃ はありません
知ってなければ も
やらなくちゃ も
ありません
ああ
分かってなくてもいいんだー
知ってなくても大丈夫なんだー
やろうとしなくても平気なんだー
と
そうでなくてもよかったんだ と
安心がひろがります
そうやって
少しずつ
自我意識や思考から
距離が置けるようになります
距離が置けたぶん
スペースができて
違う観方が出来るようになります
不安 や オソレ
それらは
本来私たちのベースではありません
二極の世界ですからもちろんありますし
あっていいものです
だだ
それがメインベースとはなってないのが
本来のわたしたちです
だから
1つの目安として
不安やオソレらが現れたら
「あ いま真ん中から外れてるな」と
自分の真ん中へ戻るための
きっかけとして
軽ーく流すくらいで
そして真ん中に寛ぎ
本来の自分から湧いてくるものを感じる
そこにその前の不安やらのモトが出たなら
感じて 認めて 感謝して サヨナラする
わからないままでいい
分からないでいられないと
なっているのはナンなのか
それは「自分」なのか
わたし なのか
安心感から
何かを感じ行動するとき
わからないまま でも
それは ヨロコビ です
ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。