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様々なデータアップデート

ここ1ヶ月くらい読書の日々が訪れてます。
数年間本は読めなかったのに。読みたいという気が全く起きず、興味もって読み始めたとしても最後まで読めない。そんなのがずっと続いてましたが、何のきっかけは忘れちゃったけど、何かで読みたいなーという本を見つけ図書館から借り始めたら、連鎖的に次はこれ~とポイポイ出てきて今に至る、みたいになってます。

以前は買っていたのですが、どーも読み返すということは殆んどしないようなので、基本的に図書館で借りてます。新刊もリクエストすれば入れて貰えるし、家が本で圧迫されることもないので、図書本で読んで「これは手元に置いときたいな」というものだけ買うようになりました。

連鎖的にいま訪れてる本たちは、大分前に読んだことがあるのもあって、その時とは全く違った視点と解釈で再インストールしてるような感じです。

それでもやっぱり一気に読むことは出来なくて、情報が濃いものは一章読んだら眠くなり、ちょっとだけ寝てまた続き読む、みたいになってます。寝てる間に仕入れた情報をアップロードしてるような、そんな感覚です。

当時は文字をそのまんま言葉として読んでたものが、今は視点も感覚も違うので、同じ文章を読んでるのに、全く別物となっています。

私は雑多読みするので、1つの「知る」ものがある時、それに対する色んな分野で記されたものを一気に読みます。

例えて言うならば、「大根の料理」を知るのに、和食の本だけでなく、洋中アジアなど各ジャンルに加えて、大根そのものについてとか、そこから種について波及したり、栄養素について波及したりと、次々と飛んでいって必要なものが揃えば、そこで完了するようです。

ピン!ときて「これ読むやつだな」となったらその場で図書館予約入れるのですが、予約者多いときは結構待つことになり、数ヵ月後にその本が手元に来たときがちゃんと「その時読む本」となってるようで、後から予約して先に読んだ本を読んでからでないと、先に予約入れた本は理解できなかったなーとかあるので、ちゃんとそんな風に必要な順番でタイミングで訪れるようになっているようです。

だから順番とかそんなもんは全く気にせず、ピン!と来た時に直ぐ予約だけしといて、読むタイミングはお任せしてます。



いま訪れてる読書三昧は、以前知識で取り入れた時は三次元的見方でしていたものを、感覚的読み込みと、文字で読みながら同時に何かベツモノに変換しながら取り込んでいるような、そんな感覚があります。

その「点」が何と結び付くのかは全くわかりませんが、いったん知識として入っていたものらをクルクルと変換していく作業のようにも感じます。

ある意味、以前つけた「意味付け」をぜんぶ取っ払っているのかもしれません。

「言葉/文字」というのは 縛る ものでもあるのですが、一方でいにしえのものらについては、「言葉/文字」があるからこそ受け取れるものでもあり、それはこの三次元ならではなので、面白いなぁと思います。


読書1つでもこんなに感覚が変わって来るのかあーと。
視点や意識が変わってくることで、それまでと全く同じことをしていても、全くベツモノとなっていて、これから益々「おぉ~!」というのが増えそうです。

これは「目の前の現実は幻想」という捉え方とは違う観点からで、それはそれありきで置いておいて、この身体を使って出来る外側での遊び方の変化、みたいなものなのかもしれません。

まーこれも「せっかく地球に生まれてきて、肉体を持ってるんだから!」という「自我」のひとつの声には違いませんが(笑)。

そしてこの「そうは言っても、日常はあるわけだし、色世界の生き方も大切でしょ」という自我の囁きは、もっともらしく、最強です。なんたって自我も生き残りがかかってますから(笑)。



色んな人が
その人だけにしか出来ない
経験をして 味わって
その人のセカイを
彩り豊かにしていく

それは
その人だけであり
唯一無二の存在で
完全オリジナルの
自分宇宙です

それは人だけでなく
あらゆるすべてのもの が
そう在っていて

それでいて
そうではない と思えている

何ともオチャメな
不可思議な世界です


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。