都心に雪が舞い降りて
都内にも雪が降り久しぶりに少しだけ積もった。雪が生活圏の方からしたら何言っちゃってんのーとなるのでしょうが、めったに降らない所としてはやはり嬉しいのです。
職場に居る時間帯がピークで、窓からみえる滅多に見れない風景に「綺麗だなあ」と仕事そっちのけで心躍ってました。
すべてが白に染まる世界。
雪はすべての音をも包み込み消し去る気がします。シンとした雑音のない世界。
雨音や強風で音が消し去られるのも好きですが、雪はそれとはまた違った音自体を吸い込んでしまうような、そんな感じ。
そんなシンとした世界にいると、普段どれだけの音に囲まれているかと驚きます。私の住んでいる東京などでは夜中も何かしらの音がしてますから、尚更そう感じるのかもしれません。
何よりも常にしている音は頭の中の言葉であり、これすらこの雪の中に溶け込むとき、何とも言えない静けさが訪れます。まあそう長くは続きませんが。
それでも瞬間でもその鎮まりを感じると、安堵感のようなふわっとした緩みのような、何とも言えない心地よさです。
雪の結晶はどれひとつも同じものがないというのを知ったとき、葉っぱが同じものがないのといい、自然界というやつはなんてすごいんだーと思ったりしてました。その頃はまだ「同じものがある」と思ってましたから。
* * * * *
あれだけ空から無数に舞い降りてくる雪が、どれひとつとして同じ形のものはないなんて。
すべてのチガイが舞い降りて、色んな所に降り積もり、あるいは溶けて。
そのチガイらがまた別の形をつくりチガイをつくり。
やがてはチガイが融け合って水となり水蒸気となりまた巡っていって、新たなチガイとなってまた舞い降りてくる。
同じように目には写っても、何ひとつ同じものは存在しないこの世界。
何ひとつとして。ありとあらゆるものがチガイで出来ている。
それなのに「同じであろう」とする人間の不思議。同じような意見、同じような感覚、同じような行動。「同じである」ことに安心感のようなものをおぼえ、チガイであることに居心地の悪さや不安をおぼえたりして。
チガイであることが自然で、そうであるのに同じであろうとするから自然の流れが滞って疲れちゃう。
チガウのが、自然。
そしてそれは常に変化し移り変わっていて。
常に移り変わっているものが、同じになるわけがない。人間も、自然。森羅万象の一部。
フワフワと舞い降りてくるまっさらな雪を眺めていると、これだけ無数のチガイがこの美しい風景を奏でてるんだよなあと感嘆する。すべてチガイなのだけど、ひとつの美として目の前の風景がうつる。
そしてこの宇宙も世界もすべてチガイしかないのに、それを現させてるものはチガイではなくて。
なんたるミラクルで不可思議なんだろう。
すべてはチガイ を知って
知ったから
チガワナイ を思い出す
チガイ を知らないと
チガワナイ は知りようがないから
それでも
知っても知らなくても
どちらでもよくて
知ったからヨキも
知らなかったからワルキもなくて
後からみれば
ちゃんと いちばんヨキ に
なっている
だから
そうなってるらしいと
そう信じて
その時その瞬間の
ジブンの直感や何となくで
運んでもらうのが
自然
舞い降りる雪のように