見出し画像

ナンにもしばられない時間はギフト

何も予定をいれていない休日。いちばん好きな時間。時間というものに縛られることなく、ココロのおもむくままに過ごす。ひたすらジブンに耳を傾けられるトキ。

ほぼいつもと同じ時間に目覚め「そろそろ起きなきゃ」と瞬時に湧く。その"思い"を脇におき、身体が動きたくなるまでダラダラまったりする。しばらくすると身体が動きたくなりほぼ同時に「コーヒー飲みたいな」と思いが湧く。コーヒーが飲みたくなったから起きた、という思考が浮かんでるのを観ながら起き上がり動き出す。うん、でも今のはキミの言う「コーヒー飲みたくなった」より身体が動き出した方が先だね。身体は勝手に動く。意味付け思考はあと。

「何を食べようかなー」と湧き、今ある食材情報がポンポン飛び出してきて、あれとあれを組み合わせてー、いやあっちは早く食べなきゃだからーとか始まる。いったん脇におき、腹の具合を確かめる。うん、まだお腹空いてないよね。空いたときに食べたいもの食べよう。

ゆるやかな時間が流れる。何時に何をしなきゃいけない、という囲いのない中を何もしなくてもよくて何をしてもよいという心地よさ。
こういう無意識の縛り囲いのない時に、ジブンの動きを眺めるのも面白い。

掃除をしたくなり箒を取りに行く。戻る間に床に置いてある昨日から乾かしていたジャガイモのザルが気になり、そこで立ち止まりジャガイモを定位置へ納めまた箒をもって奥から掃き始める。先程ジャガイモ置いてあった場所まで来た時「ああそうか、だから初めにどけたのか」と気付く。毎度ながら良くできてるなーと思う。フと気になることをやってれば流れが無理なくスムーズになってる。

昼もとうに過ぎた頃、お腹が空いてきたことに気付く。さてなに食べようか。なに食べたいか?。食べたいと浮かんできたのは、昨日買ったさっきのジャガイモを茹でて塩だけでホクホク食べるのと、超半熟茹で卵。ふむ。コーンチーズパンとヨーグルトに果物適当に入れたやつと、それでいっか。あ。昨晩の味噌汁も飲んじゃえ。

昨日雨の中の買い物でアサリかシジミの味噌汁飲みたいなーと魚屋さんを覗く。
「アサリまだありますか?」と聞くとうーんという顔をしておねーさんが確認してくれる。手に貝の入ったネットを持ち「ごめんなさいねー、もうアサリこれしか残ってないの。なんか今日のはすごく小さくて、いつもの1/3くらいの大きさなのよ、これでもいい?」とおっしゃる。遠目に見えるその貝は確かに小粒に見える。まーでも貝のお味噌汁飲みたかったから「それでいーです」とお願いすると、横に座っていたじぃーちゃん(先代)が「150でいいよ」と言ってくれる。小さいから半額にしてくれてラッキー! 
おねーさんが用意してくれてる間に「イカゲソ¥200」札が目につく。ほ?ファミリーパック位の大きさトレイに入ってるんですぞ?しかもここの新鮮さは間違いない代物ですぞ?戻ってきたおねーさんに「これ、200円なんですか?」と聞くと「そうなのよー。明日から盆休みで連休するからねー」と。なるほど。既に夕方近くでしかも雨。めっちゃお買い得!ということでイカゲソもいただく。
お家に帰ってきてから冷蔵庫に入れようと貝を見る。確かに小さいね。まじまじと見る。見る。・・・うん、おねーさん、これシジミだよね、たぶん。そりゃー小さいよね。でもシジミとしては普通の大きさだよね。半額にして貰っちゃったけど大丈夫だったのかなー。
それでも魚屋さんが言ってたのだからもしかしてこういうアサリもあるのか?という疑念も拭えず、味噌汁での結果を待つことに。
うん、間違いなくシジミだね。
美味しいねーと思いながらも、あの時真剣に「今回のはすごく小さくて」と申し訳なさそうにしてたおねーさんが可笑しくて、味噌汁飲みながら笑っていた。

多量のイカゲソは塩麹でモミモミして一晩置いたあと小分けにしてから冷凍。しばらくの間色んな料理で楽しめるね。
下処理全部終わってから、そういえば昨晩何かでイカレシピを見て心踊ったのを思い出した。あーそうか。だからイカゲソだったのか。しかも超お手頃で。


最近は「いいなー」と思ったりココロがちゃんと連動して感じたものが現れるというのは日常茶飯事になっていて、あまり驚かなくなってきた。引き寄せと呼ぶ人もいるんだろうけど当たり前になってくると引き寄せもへったくれもなく、そういうものだという感覚になってくる。
それよりも、こういったのを体験として実感すると、ジブンの意識の向けたものがエネルギーが拡大するというのを身をもって感じる。

「想い」というものは意識してても無意識下でも、向けられたものが強くなる。
だから巷でよく見聞きする「楽しいことをやろう」「ワクワクすることに目を向けよう」というのも、なるほどなーと思うし私も言葉としてよく使う。ドーンと要らん事に頭を使ってるよりかはよっぽどいい。
ただ、意識というのは何層にもなってるし、まだ以前のやり方で思う癖が抜けてないから、外側に合わせた自分としての意識か、本来のジブンの真ん中から聴こえ感じるものかで現れものも変わってくる。

何が現れてるか?で今のジブンを観ることができるのが外側に現れてる世界。ジブンの内側の確認をするために外側が映し出されると思っていれば、こんなにありがたいことはない。
ズレてたり以前のやり方想い癖が出てる時は「ヤだな」とか怒り焦り不安の反応とか出てくるからすぐ分かる。出てきたら意味分からなくても「もう要らんもの」と感じたらポイしてサヨナラすればいい。そうするだけで今は軽くなる(以前はもっと修行的だったけど)。
外側で起きたこと、誰それさんがとかこの状況がとか、外側に意識向けるとそれの解決手段を「得よう」とするからその場は収まるかもしれないけどナンも変わらない。



不安とか心配焦り、出来ないんじゃないかとかそういった類いの、閉じるというか固めるというか恐怖に向かわせるような思いを抱いてそこから解決なり達成感なりを得てーのやり方はもう既に過去のもので。
今(これから)は出来ることが前提で、それぞれの個性や特質を通して色んな視点を現せる世界。だから不安や恐怖は重荷でしかなく要らないものだから、見つけたら手放していくだけ。

「このトラウマは過去生の○○が原因で、それを浄化するために○○をしなくちゃいけなくて」とかやるのも楽しいから悪くはないけど、そもそも「○○をしなくちゃ○○できない」と言うのが古い捉え方で枠にはめているというとこに目を向けないと、いつまでもずーっとその世界を楽しんでるのかもしれない。そのストーリーで遊ぶのは楽しいけど古いバージョンでレベル上げても新しいソフトのバージョンにはならない。

バージョンは常に更新されてて、チカラ抜いて自然であればいつの間にかアップデートされてるのだと思う。
そこに変なこだわりとかあるとそこがバグって上手く進まないから、バグになる古いバージョンの思いや感情は"ゴミ箱へ移動"させちゃう。

自分でやってみて確かめて、体感して実感してけば「ああそうか」が貯まっていく。同じ物事でも人によってマッチ具合も微妙に違うのだから、ジブンに合うものを取り入れていく。それには自分でやってみないとわからない。
「失敗」というものはないから、ジブンのココロ躍るものは安心してやってみる。ハジメマシテの出来事は多少の勇気はいるかもだけど、どっちに転んでも良くにしかならないとわかっていれば、やってなんぼと思えてくるから可笑しい。


なんにも予定を入れず、自分がいつの間にか創っている「時間」という縛りをゆるめた中で過ごすと、普段気付かないジブンの中の動きも観えやすく感じやすいから楽しい。
会社という組織に属してたりそうでなくても、日常の中ではどうしてもかつて自分が創った"みえない囚われもの"ありきで動いてしまう。今はそういったのに気付いてはジブンの真ん中に戻る、を繰り返して日々を過ごしているけれど、こうやって休日だけでも社会的なとらわれ概念を外して過ごせる時間が持てると、落ち着くしジブンの中の安定感が増すように感じる。

何も心配しなくても用意万端にしなくても、必要なものはちゃんと順番に現れるし必要な人にも出逢える。
そういう安心感みたいなものが体感通して増えるほど、より「どーでもいい」となり「何でも大丈夫」となり全体の流れのようなものにユラユラ任せられるようになる。"自分"が頑張らなくても、ちゃんとヨキコトへ向かっていく。

自分 は頑張らないけど
ジブン の真ん中の幹は研ぎ澄まされ土台がしっかりするよう、ただただ内側を観る。


自分 が頑張って得た派手な高揚感やら
はないかもだけど
そこには心底から湧き出る歓びの流れがあり
その流れから訪れるギフトは
自分からは思いもよらないカタチで現れ
笑かしてくれ
驚かしてくれ
この森羅万象ありとあらゆるものの
存在 流れ に畏敬が湧きおこり

そして

ジブンもそのなかのヒトコマだという
そんな瞬間を味わい


さらにゆるまり

とけていく


いいなと思ったら応援しよう!

kitoma
ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。