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言葉をつかまない

最近特に感じるのは、「言葉」というものはそれを追ってちゃダメだなぁーということで。

言葉はものすごく便利でそれがこの世を創っているようなものだけれども、だからこそものすごくややこしい。いや、ややこしくはないけどわかりにくくするひとつだなあと。

言葉そのものをつかんで追ってる限り、ぐるぐる自分の世界でさ迷いやすい。その人の中での言葉でしかないから。他の糸口を見つけ難い。
"その人の中での言葉"というのは、その人が持っているその言葉に対するイメージや感覚のこと。その言葉に対する意味付けされてるもののこと。
それは言葉を耳にすると同時に勝手に沸き上がってきて、次にその意味付けされてたりイメージされてたりするものから「理解」をしようと試みる。それが四六時中頭の中を駆け巡っている。休む暇がない。

誰かや何かから見聞きした「言葉」を、そのまんま「あの人がこう言ったから」「こう書いてあったから」とぎゅーっとそこだけを握りしめていると、その後ろにあるものが観えない。

言葉は指し示すもの。

言葉には、それを発した人や記した人の気持ちや感情、意識がのる。あるいは意図が。

そして、その更なる背後に、もっと大きな、人の意を越えたナニカが流れている。
言葉そのものを追ってる限り、それを感じることは出来ない。そして、言葉ひとつひとつをとらえていてもやっぱり難しい。

単語や文章としての言葉ではなく、それらを含む全体の流れを感じることが出来たとき、それはナニカを指し示してくれる。香りのようなもの。

そうは言ってもずっと「言うことをきいてやりなさい」と育ってきたのだから難しい。

だから、「言葉」をいったん取り入れたら、すーっと引いてみる。言葉を一旦横に置く、でもいい。意味も理解も全部。忘れてしまうくらいが丁度いいのかもしれない。
そうすると、ニュアンス的なものだけが漂う。それも掴まないでほおっておく。

そんなこんなをしていると、ある時まったく関係ない時や物事で、そのニュアンス的なものが自分の中にあった「言葉」と結び付き、弾ける。「ああそうなのか」「ああそういうことか」となったりする。

その時その場で知らなければ、理解しなければと思っていると、どうしても「言葉」をガッシリ掴んでしまい、自分の中にあるその言葉の意味付けだけでなんとか解決しようとしてしまう。

自分の中にある「言葉」は、それまでの自分の経験からしか意味付けされてない。
つまりは過去のもの。自分の過去のデーターをなんとか組み合わせて理解しようとし、解決しようとする。それはとてもちっぽけなもの。

そして、過去の組み合わせで導きだそうとしている「言葉」から、「いま」を見抜くのは難しい。"いま"現れているその言葉らに、過去の意味付けをしてしまうから。
しかも自分というとても狭い世界の中だけで。


「言葉」から"分かろう"としなくていいのだと思う。
分かろうとするから「どうしたらいいのか」となって、更に言葉を求めようとする。

分からなくてもいい、という選択肢があることを思い出す。その時分からなくてもいい。

分からなくちゃいけないことなんてホントは何もないのだけど、でもその時必要なことはちゃんと分かるようになっている。

その時分からないのなら、その時は分かる必要がないんだなーくらいに軽い気持ちでもいいんじゃないのかな。

それでも必要ならば、ちゃんとそのタイミングで分かるようになっている。


一方で言葉はとても美しくて素敵なツールで。
言葉により救われたり、言葉によりナニカが伝わったりもする。

あたりまえに日々使い、あたりまえに自分に取り入れている「言葉」。
そもそも言葉とは何なのか。言葉があることで何が起きているのか。
無意識にあたりまえに使っている言葉で、自分は自分に何をしているのか。
そんなことに眼を向けてみるのも楽しいかもしれない。


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kitoma
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