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それぞれのカタチで

ㇷと見たネットの情報で
気になる雑誌が載っていて
もう紙媒体は殆ど買わないのだけど
取り敢えず中身見てみたいなあとなった

翌日出掛けて近くの本屋を通りがかった時
それまでスッパリ忘れていた
その雑誌の事を思い出し
バスが来るまであと数分あるからと
本屋へ入ってざっと見渡したけれど
それらしい雑誌が見当たらず
書店の人に尋ねてみたら
もうちょい奥のコーナーにあったそれを
持ってきてくれた

表紙を見ただけだったけど
「買いだな」と自分の中ではなっていたので
そのままお会計したら その雑誌のその号は
その書店にちょっとだけ関りあるということを
探してくれた店員さんが話してくれて
「昨日ネットで知って興味持ったんですよ」と
伝えたらとても嬉しそうだった

直ぐバス停に戻ったら丁度バスが来る時で
待つことなくバスに乗れちゃった

家に戻ってからその雑誌を読んだら
ほぼ今の私が興味あることばかりが載っていて
写真やレイアウトも好みだったから
きっとしばらくは手元に置いておくんだろう

存在自体知らなくてたまたま前日興味持った
メジャーでもない雑誌が 近くの小さな書店に
あるとも思ってなかったし
まさかその店と繋がっているとは思わない

でもその繋がりを知った事で
ちょっと嬉しかったし
その雑誌への愛着や興味も
知らない時より湧いていて
何より ものすごくスムーズに流れて
今手元にそれがある


そちらに意識が向く時は
そこに何らかの響き合うものがあって

もちろんそれは
ヨイと思える事も
ヨロシクナイと思える事も
両方含んでいるのだけれど

それをどう「自分」が判断しようと
意識がそこへ向いたという事は
何らかの響き合うものがあるからで

まるっきり自分側に何もなければ
反応のしようがないし
そもそもその存在を知りようがない



こう聞くと何かヨクナイ事があった時に
「自分」は
こう思うのは自分に同じ非があるからだ
とか
そういうものを自分も隠してるからだ
とか
とにかく陥る方向へと引っ張るようなものを
過去の記憶から投げつけて来て
さも正しいかのように置いていくけれど

いつまでもそんな自我の手法に
ハマっている場合じゃーない



そこに意識が向いたということは
自分の中に何らかの反応するものがあって
もしかしたら
ウキウキの種かもしれないし
もしかしたら
思いクセの絡みモノかもしれない

そんなのその時には分からないけれど
「自分」というものを
動かすナニカであるのは確かであって
それを動かすために
その出来事が訪れている とも言えるから

じゃあ 何が動いたのか? ってだけで

それがたまたま
喜び が動いたかもしれないし
怒り が動いたかもしれない

何かが動いた のが起きた事で
それにヨキワルキを付けるのは
後からの自我のしわざ



この全体の軽さと強いサポートで
モノゴトってこんなにスムーズに
運ばれるんだって知る っていう
目がパチクリする経験をすることも
多くなって来てるんじゃないのかな

あんなに一生懸命悩み考えてたのは
何だったんだろうって
気抜けするくらいに

もう ややこしや~の世界は
成り立たなくなって来ているから
どんどんシンプルに
どんどんスムーズになっていって

逆に言えば
ちょっと突っかかったり
上手く運ばれないような時は
何かしら本来のじぶんの意からは
ズレてる事が含まれているという
合図でもあるから分かりやすい

そしたら一旦立ちとどまって
じぶんの真ん中でひと休みして
YESなのかNOなのか感じてみれば
本来のじぶんの意であれば
直ぐに何らかの感覚が返って来る

うじゃうじゃやってる時は
思考が絡んでる時

本心に直結ならば
うじゃうじゃする前に
もう身体が動いてる

それでも分からなければ
もう寝ちゃいえばいい



周囲の 崩壊 も始まっているから
それに右往左往されないで
いま 何が起きているのか
という 事実 だけみていると
言葉の操り みたいなものが
浮き彫り易くなってくるから
そこからまた
自分がどんな言葉マジックに
囚われていたか を
知ればいい

知ってさえしまえば
ナニカが動くから

そこからまた
次へと繋がる


「自分」がやろうとしなくても
ちゃんとやるべき事が
モノゴトとして現れ流れてくるから
「自分」を休ませていても大丈夫

動かしているのは
「自分」ではないのだから

「自分」は流れ動いている
その一部であり ひとつ



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kitoma
ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。