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ひとつの視点として

今日の東京はポカポカ日和。
街中も人出がたくさんで、みな春の装いで和んでました。


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世の中的には様々な出来事があり、人それぞれ捉え方も受け取り方も様々です。

ひとつの視点として。
もし外側が自分の内側を写しているとするならば。
すべてが自分であり自分の中の出来事としてとらえ、あくまでもストーリーの中の出来事であることを前提に比喩的に現すのであれば。

タタカイという出来事は、自分の中のタタカイという事になります。自分の中のタタカイやアラソイを現しているという事になります。

タタカイやアラソイのもとは、それぞれの正しさ、それがヨキと思い信じていることへの疑問のなさ、価値観の違いなど様々です。
そしてそれらの裏には「恐れ」というものが隠れています。そうしなければこうなってしまう、など。失いたくないしくはもっと得たい何か。不足感。そうであらねばならないという思い。

それらが外側に現れているのだとすれば、それは自分の中にそういった部分がないか観なさいよ、という風に受け取ることも出来るのです。

自分の中に、認めようとしない何かはないか、自分の正しさで握りしめてるものはないか、自分で自分を責めてる(攻めてる)ところはないか。

もしそれらがあるのであれば、そこにはどんな恐れを自分は隠しているのか。
その隠れている恐れから、自分は何を守ろうとしているのか。
何をみたくないのか。

自分の中で自分とタタカッテいるところはないのか。
誰かと、ではありません。自分の中で、自分が、です。

本来のジブンの気持ちと、自我の自分で考えるものとの差で生まれている違和感に、ちゃんと気が付いていますか? その違和感から起きている自分の中のタタカイに気が付いてますか?
そう 捉えることも出来るのです。

自分の中は平和で安心なのだろうか。

外側の出来事情報に反応して恐れや不安を増したとき、それは自分の中の安心に繋がるのだろうか。

自分の中の安心とは何だろうか。


エネルギーは、意識を向けたほうに強くなります。どのエネルギーがよいということもありません。自分の中をどのようなエネルギーで充たしていたいか、ということです。

本気で外側は内側の鏡と感じるならば、自分の中はどのようなエネルギーで充たし、それを反映させたいのですか、どう在りたいのですか、と。

誰かに愛を送るのならば、先ず、自分が愛で充たされてなければ、自分の中の充たされない思いが増えるだけです。

自分が充たされていれば、それは自然に勝手にあふれだします。
自分の中の平穏さ、安心感、和やかさ、そういったエネルギーはどこまでも届きます。

目の前の一杯の飲み物を飲んで、ホッとゆったりする。
その一瞬のやわらかなエネルギーが周りに届きます。

自分の中のタタカイの古いものは、もう要らないのです。調和、融合、中庸に変わっているのです。


いま自分に出来ることは
要らないものを手放すことであり
自分の中を安らかさで充たすことであり
そう 捉えることも出来るのです


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kitoma
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