装いを外したところにあるもの
バスの中で着物姿のご婦人が乗られて来て
斜め前に座ったその方は
背もたれに全てを預けることもなく
シャンと背筋を伸ばされて
でも窮屈そうでもなく
無理のない姿で揺られていた
おそらくなのだけど
その方は着物を着慣れていて無理がない
あー美しいなぁ と思い
失礼のない範囲で眺めていたけれど
何だろう 所作が美しいのかな
最近は若い人も着物を着てる姿よく見かけ
それはそれで綺麗ではあるのだけど
美しいとはあまり感じなくて
それは 洋服と同じように
着こなしているからなのかもしれないなあ
近くのお茶屋さんの女将さんは
毎日着物姿で出勤されていて
それがまた何とも美しく粋でかっこいい
内面から来る美しさ というものは
隠していても出て来てしまうもので
外装を幾ら綺麗にしていても
その 根本から来る美しさ とは
まるっきり別次元のものであって
その内面から来るものが
深まれば深まるほど
静かで澄んでいて
かといって特別感はなく
でも 圧倒的に 美しい
そんな人に出逢えたとき
ああ 美しいなあ 素敵だなあと
こころが歓ぶ
その内面的な美しさというのは
修練して身に着けたとか
そういった部分もあるし
そういった見方もあるけれど
私は
本来持っているその人の本質部分
純粋な輝きのようなもの
そういった感じのもの と感じていて
そしてこれは
誰もが持っていて
持ち合わせていない人なんていない
それが表に現れているかは
また別のことだけれど
そういった意味では
赤ちゃんは隠しようもなく
その部分でしか生きていないから
だから掛値なく可愛いし愛おしい
それはまた別の視点からみると
その赤ちゃんと接することで
自分の中にもともとあるソレが
共振してるとも言えて
自分の中にそれがあるから
そう思える とも言えるのね
そしてその本質ともいえるもの
個性とかそんなものより
更に深まった本質的なものは
誰彼という違いはなく
みんな同じもの
肉体からみれば
自我というものを通してみるから
そんなものに繋がっている という
言い方の方が分かりやすいのかもしれない
この体というもので
個々別々だとして普段暮らしているから
今はそれを現実として
当たり前となっているけれど
これからは少しずつ
その部分も揺らぎが入って来るんじゃないのかな
そして
それを踏まえたうえで
日常と呼ぶものが展開されるようになっていく
それは
今の考え方の延長線上にあるものではなく
それでは想い描けないもの
だから
今は 今まで が
どんどん揺さぶられて崩されて
本当にそうなの?と
各々に分かるカタチで問いかけられている
本当にそうなの? は
それが正解なの? ではなく
本当にそれが全てなの? という
スペースを生むような感じ
どれもこれも
どれだけ いま に
意識を向けていられるか
いま に
くつろいでいられるか
それの
練習のようにも
感じるなあー