アーシングで地球と繋がる
午後お休みを取っていたので、天気もピーカンだし久しぶりに公園アーシング。
突如思い付いたもんだから敷物とかの用意はなく、エコバッグをお尻の下に敷いて樹の根っこに寄りかからさせてもらい裸足になる。芝生はモコモコ。靴履いててもフカフカなのが分かるくらい。
樹に身体を預け、足裏芝生につけてまったりタイム。なーんも考えず、ただただボーッとする。
遠くを走る車の音がして。時おり通る人の声がして。木陰だから風が吹くとメチャ気持ちがいい。だんだん身体のリキミが抜けてきて、ぐだーっと緩んでくるのが分かる。
何だろう。お布団やベッドとは違う心地よさ。樹の根っこに寄りかかってるから背中は痛くてもおかしくないのに、背中いっぱいにジワジワ広がる優しい樹の振動。お尻と足裏しか地面には着けてないのだけど、大地にくるまれてるような安心感。うーん、このまま寝れるぞ。
目の前に広がっている空。雲は形を変えながらゆっくりゆっくり流れていき、だらーんと眺めていると、雲の動きに合わさるようにジブンの中もナニカが流れていく。
上を見上げれば寄りかかってる樹のワサワサした葉っぱが風に揺れていて。
もう、ただただ心地よい時間。
本当に気持ちいい。
お陽さまが遮られて、少しひんやりした風に変わる。
かけ登ってくる蟻サンを「そちらのテリトリーにお邪魔してるのはこちらなので申し訳ないのですが」と思いつつ、ピッピと払って戻って頂く。
小一時間ボケーっとして。満足感が広がったのでここらでオイトマしよう。
帰り際に落ち葉かと思って近付いてみたら
き・・きのこ?
へ? 公園に。芝生にきのこって生えるの?
知らんかったよ。よく見るとあちこちに小さなきのこがニョキニョキしてる。踏まないように気をつけて遠回りしてみる。
まー、ちゃんと管理されてる公園だから、ヨロシクない物だったら専門家がどーにかするだろ。
アーシングの仕組みとか何がどういいとか、あまりよく知らないし分からない。
だけど、ものの30分~1時間ほど裸足で大地に足をつけておいた後は、スニーカーはスッと履きやすくなってるし、膝に溜まっていた水も明らかに減っていて歩きやすくなっている。
初めは身体に溜まってる電気を流すと身体に良いらしいからとかゴチャゴチャ考えてたけれど、毎回自分の身体のむくみが軽減されているのを実感するたび、そういう理屈はどーでもよくなってきた。
膝の水が減る。足のむくみがなくなり、帰りは歩きやすいし身体全体が軽い。
私にとってはこの体感の事実だけで充分で、それをアーシングと呼ぼうが何だろうが呼び方や理屈はどうでもよくて。
これをやると心地いいから、というだけで今はやってる気がする。これを続ければもっと身体が良くなるとか、月に何回やらなくちゃとか、そんなもん、ない。
気が向いたとき、タイミングがあったとき、裸足で大地に足くっつけたいなーと感じたときとかにやっている。近くに小川とか海とかあったら、そこに行ってるかもしれない。今は手近で裸足になれる場所が公園だからというだけのことで。
虫が苦手な人は芝生も嫌かもしれないし、水が苦手な人は小川に足を浸すのも嫌かもしれない。でも、昔の人はゴム底靴でなかったしアスファルトでなかったから、日常生活歩いてるだけで自然と出来てたことが、今は出来ない。地球の上で暮らしているのに、地球と直に触れていない。地球と根っこで繋がれていない。
ヒトの身体は自然の一部だと思っていて。
そりゃあ内臓やら何やらこれが自然なの?と言う人もいるかもだけど。でも、その内臓やらのこの肉体をつくっているのはお野菜とかお水とか自然のもので、身体の中にいる菌たちが働いてくれて。しかもそれらは一切自分が関知してないところで粛々と行われて細胞は入れ替わって。もはや「自分の身体です」と言っていいのか分からなくなる。自分で動かし作り上げてないものを「自分の身体」として思ってはいるけれど、「身体」というそのものだけで観たとき、やっぱり自然というものの一部として成り立って動いてるよなーと感じてしまう。
森羅万象の一部であり自然である身体ならば、この地球という星の自然サイクルと共に流れてるのが自然なわけで。季節が巡るように。月の満ち欠けで海面が動くように。
高い山と低地では生息する植物が違い、海も場所や深さでいる魚も変わる。
ヒトは地上に暮らしている。そして「身体」というものが共通で同じ成り立ちだと思ってしまっている。だから、他人とちょっと違うと比べてみたり、身体によさげと聞くと取り入れようとしたり。それ自体は悪いこととは全然思わないけど、全ての自然は違うように、ヒトの身体だってみんな違う。全員。親子であろうとも。
なら、人と違っていてもいいんじゃない?と思う。そして、人と違うのだから、誰かにとって良かったものでも自分に合うとは限らない。
だから、自分で身体の声を聞かないとわからんでしょー、と思う。
情報はものすごく便利だけど、言葉だけで信じるよりも、先ず自分の身体に聞いてみる。やって差し障りないものであれば、取りあえず身体使ってやってみる。やってみて「合わんなー」と思えば止めればいいし。それも身体が教えてくれる。感覚で。
自然である身体は、自然の流れをちゃんとキャッチする。気圧の変化で頭痛くなったりもするし、滝の近く行けばよく分からないけど気持ちいいし。
身体の感覚でOKやSOSが出てるのに、その感覚無視して頭の理屈を採用するからややこしやーになっちゃう。理屈、いらない。ヒトはいつから自分の身体の感覚を信用しなくなったんだろう。というより、身体の感覚に耳を傾けることをしなくなっちゃったんだろう。
こんなに素敵な機能が誰にでも備わっているのに。
もうそろそろ「人間だけは違う生き物」的な捉え方、やめなきゃだよなぁ。人間と動植物、人間と鉱物、なんでもいいけど成り立ちと個性特性の違いだけなんだと思うんだけどなー。
ああなんだか話がでっかくなっちゃった。
ずーっとアタマ中心で生きるということを教えられてきたから、自分の感覚にシフトするのは難しく感じてた。
でも、感覚ってちゃんと広がっていくし澄んでいく。自分で感覚に意識を向けるようにしてれば。自分がいま何を感じてるか?にいつも目を向けて生活するようにしてれば、自然と感覚は深まっていく。
何を感じてるか?
何を考えてるか、ではなくて。感覚。
誰が何を言ったか?
ではなくて
それに対して自分がどう感じたか?
ついすり替えられちゃうマジック。
今日の夕陽もキレイだった。
地球パワーもお陽さまパワーも貰って
フルチャージだね。
しょっちゅう脱線してまたジブンの中心へトコトコ戻っての繰り返しだけど。
それでも大地に寝そべれば気持ちいいし、ジブンの中心のあったかな所は安心で心地いいのだから、その気持ち良さや心地よさで自分をいっぱいに満たして。ジブンの中の安心をどんどん広げていって。
その時その時のジブンの一番のココチヨサを最優先にして。
自然にたくさん教えてもらって。
そして
自然に
溶けてしまおう