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話しかけてみればさ

駅までの通り道にお地蔵さん如く石像が置いてある。お地蔵さんではない。たぶん。モアイ像みたいな感じだから。通りに向いて置かれてるから、何らかのお守りなのかしらん。越してきた時から不思議なもんがあるなーと思ってた。

その横にはお店があり、少し前に改装工事をしばらくしてた。
その朝出勤で通ると、工事にさしつかえたのか石像がクルリと反対側の路地の方へ向いて置かれていて、通り側からは後ろ向きになっていた。

(あ・・りゃ? 後ろ向きだぞ?)
とか思った瞬間

「ちっ こっちじゃねぇーんだよなー・・」

思わず立ち止まりまじまじと見てしまった。

(そ そーですよねぇ、、)
と答えつつ可笑しくてニヤけながら駅へ向かった。向きが違うと言ってるらしい。

翌日もその翌日も後ろ向きのまま置かれていて、こりゃー工事終わるまであのままなのかなあと思いつつ

(まだそっち向きですねぇ)
とか言うと
「うーん・・」とか
「はぁー、、」とか聞こえてくるので早く戻ればいいなと思いながらもその様子が可笑しかった。

それから何日かした帰りがけ、石像がもとの通りに面した向きになっていた。

(おっ! よかったですねぇ~)
と言うと

「ふふふ」
とご機嫌さんの声が返ってきた。


お店が改装後オープンになった数日後、夕方その前を通ると何か違和感が。
なんと石像の目の前に店の置き看板が置かれてる。しかもちょうど石像の顔面と直角に、今どきのおしゃれなタイプとかではなく、でーんとしたスタンド型電飾のやつ。
石像から見たら自分と同じくらいの高さの顔幅ほどの箱の側面がピタッと顔前に貼り付いてる感じ? いや、なんでその場所に?

またもや立ち止まり
(ありゃ~) と思ったその時

「んー・・ どーしたもんかなー、、」
と聞こえる。

(なんか目の前ぴったりしちゃってますねぇ)

「うーーん ・・」

それでその場は去ったけど、いや申し訳ないけどビジュアル的にはめちゃくちゃ可笑しくて、またしても笑ってしまった。
にしてもあのため息混じりの声。笑える。

てっきり朝には片付けられてるのだろうと思ったら、翌朝もそのまんまで。

(あ・・れ? そのまんまですか?)

「はーぁ。 なんなんだかなー・・」

目の前がずーっとなんかに塞がれてるんだから、そりゃうっとーしいよなー と人間的発想が湧く。
2、3日そのままでようやく片付けられていた朝、

(おっ!よかったですねぇ。スッキリですねー)

「ふふ」
と嬉しそう。


が。その翌日には今度は顔に対して水平に置かれていて。看板の支えの部分があるから直角の時よりかは隙間ができてるけど、その代わり今度は石像がまるっと見えなくなってる。

(!! 今度はそれですか!)

「うーーん。 まあねぇ ちょこっとだけねぇ。。」

横へ回ると今回顔はちゃんと見える。
けどやっぱりでーんと置かれてるなあ。。
ちょこっとだけ隙間できてるけどね、うん。


その後朝には片付けられてるようになったから、出勤で通るときにはお姿ぜんぶ見えてお陽さまも丁度あたる。

(おはよーございます) とか
(んじゃ!) とか声かけると

「ん。」とか 「おぅ」とか返してくれる。


いやはや本当に面白い。
植物でも物でもなんでも、大抵のものは声かければ何らかの反応を返してくれる。
植物は優しいとか穏やかとか元気なのとかが多いけど、今回の石像もそうだし物とかは結構オチャメというか愉快さんが多い。
みんな共通してるのは否定的な事や責めるような事は聞いたことないし、怒りを出してるのにも会ったことがない。

石像の存在を知っている知り合いにこの事を話したら、丁度通りがかったらしく看板の置かれ方のことも知っていた。
私と石像のやりとりを面白そうに聞いていたので「話し掛けてみればいいのに。答えてくれるよー」と言うと「いや、自分には・・」と驚いている。
いやいや、みんなに答えてくれてますから。別に私だけが特別なんじゃーない。私だって声に出して話しかけてるわけじゃなく、ココロの中でのやりとり。私の場合は言葉で聞こえるけど、映像かもしれないし何となくの感覚かもしれない。それは受け取り側によるから何ともだけど「これは物だから話さない」とか「植物だから」とかそういったやつを取っ払っちゃって、普通にコンタクトとれば何らかの形で返してくれてる。気が付いてないだけ。

結構色んなものとコンタクトとってる人多いと思うんだけどな。口に出して言わないだけで。
毎朝駅までの道のりで街路樹や植木鉢とかに「おはよー」とか「キレイねー」とかフツーに言いながら歩いてくけど、みんな「おはよー」とか「ありがとー」とか返ってくるけどな。
そのうちこれが当たり前になってみんな周りのモノゴトとやりとりできれば面白いのにね。もともとみんな持ってるものなのだから。そしたら "人間だけが特別" なんて思わなくなるんじゃないのかな。もっと自然とも共鳴共存出来るようになるのにね。

今の子供たちやこれから生まれでる子たちは標準装備になってるのかもね。その部分を忘れないで成長する。幼い頃から自然のオトや声をアタリマエに聴けてしかもそれを忘れないで大きくなるのってステキだなぁ。感性も全然違ってくるんだろうな。どんな風に世界がみえているのか、聞いてみたいなぁ。

今まで造ってきた囲いみたいな思い込みが外れる度に面白いことが増えていく。
みえ方も聴こえ方も感じ方も変わってくる。
で、それって自分で見えなく聞こえなくしてただけで、ホントはいままでもずっとそうであったんだと何となく解るようになる。
そうするともっと楽しくなってくる。
愉快が増えてくる。
思い込みの囲いみたいなのも、今はもう外そうと頑張らなくても「あ!思い込んでた!」って気づくだけで勝手に外れてく。
だからもしそういった場面が訪れたら、チャンスとばかりに「はいっ、私が思い込んでおりましたっ!」とさっさと白旗あげちゃう。
そこで「いや、あいつがー」とか昔の習慣がしゃしゃり出て来るけど「そだね。けど、もういーやね。」と自分の心地よくなる方へ。
もう自分の中の昔の習慣相手するのも疲れちゃうし気持ちよくないから。気分よくないことはやらない。

自分の「心地よさ」を優先にしていると愉快やご機嫌さんが増えてきていいやねー。


さて今日はナニで喜ぶ自分を発見するのか。

ぴょんぴょんと
跳ねながら
笑いながら

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