歪み直し整え直しそれすら放して
お水さんが変わった
浸透度がより深くなった
奥のほうまで染み渡り救い上げてくれる
「見える」という事の鮮明度も上がって来ていて
奥行感も増し 薄皮が一枚はがれたかのように
目の前 がよりリアルに感じられるようになっている
時間の感覚も速くなって来ているけれど
実際何か物事をやっても多分今なら実感できる
例えば料理で何か茹でたとして
え?っていう位早く茹で上がったり
今までの時間感覚で何かしようとすると
ズレが生じてくる
気温差かしらとか考えてみたけれど
どうもそれだけでもないらしい
巡り が速くなって来ているから
ん? と思ったらそれを直ぐやると
その後そこからスルスルと何かが動いて
思いもかけなかった所に着地していたり
ん? とか 何となく とか
何でもいいのだけど その感覚は
ドンドン分かり易くなって来ているから
そういうのがある
っていうのを認識していれば
頭が動き出すよりも先にキャッチしたものへと
身体が自然に動くように変わってきている
今まで思考の方がより早く前面に出て来て
あっという間にかつての彼方へ飛ばされていたのが
思考とのタイミングがずれ始めているから
自分が認識して意識さえしていれば
スムーズさが増してややこしさが減ってくる
そんな現象を
思うように引き寄せられている とか
すごく上手くいっている とか
そんな風に捉えて わたしの手柄 かのように
また思考がすり替えて行くけれど
それら全てが 思考の産物 だと見抜ければ
やがてそれらも息をひそめるかのように
静かになっていく
わたし というものの在り方というか
感覚というか 存在というか
今までとは異なる ということを
各々が一番馴染みやすい分かり易い方法で
開示されてきていて
その方法は様々だからどれがどうとは
言えないけれど
自分軸 という言葉に対しても
どこの視点から語っているか で変わるから
言葉と言うものはありがたいけど難しくて
でも殆どの場合
自分がいて他者がいる という
分離を前提としていて
その場合はどこまでいっても
自我主体の目線になってしまうから
それなのに 自分軸 という言葉を
一元的な意味合いや 統合などに絡めて
使っている事もあるから
余計に混乱することになる
目の前の出来事をよりよくするために
自分軸になっていきましょう なんてのは
思いっきり 自分が そう出来る
というのを目指す事になるから
自分がそれをコントロール出来る と
思うだろうし
それは自我が喜ぶ事このうえない
三次元的に目の前の現象をリアルとして
それで遊ぶというのならばそれで良いけれど
今の流れはそれとは違っているから
その場合の 自分軸 は
自我的目線での語りではあるけれど
それを敢えて利用して
自分の内側へ意識のベクトルを向けるよう
そんな促しに繋がっていて
確固たる個人の自分がいる というのを
ちょっと横に置いた状態での目線になるけど
自他という風に分けた考え方から
内側の内在のほうへ意識転換させることで
結果的に自分軸も他人軸もないよね って所に
着地はする
裏と表は切り離せなくて
どちらもあるから成り立っているから
そのパラドックス的なものも含めて
言葉 というものを感じられると
もう少し視野が広がってくる
そういうのも全部 結局は
自分が今までしている思い込みや思いクセ
握りしめてる意味づけ などを
一旦ぜんぶ解放するほうが早いから
自分で自分をくくりつけてる縛りを
どんどん見つけて気付いて
解いていこうねーと なっちゃう
もう
自分で自分を 縛る必要なんてない
何者にも 何に対しても
懲り固める必要も 握りしめる必要も
ない
それらは全部
頭の中だけの出来事だった って
気づきが落とされていくから
そーだった そーだった と
気付いては笑い飛ばせばいい
笑いが飛ぶほど
どんどん軽くなるから
そしたらもう
いま 目の前の幸せ しか
気付けなくなる