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コウサンのテマエ

降参するというのは、本当に自分には何も出来ないんだな、を心底知ることではないかなと感じます。

何でもやろうとするんです、自分は。
何でも出来ると思ってるんです、自分は。
何でもやってきたと思ってるんです、自分は。
何でもやらなくちゃいけないと思ってるんです、自分は。

だから

ちょっと出来ない自分を責めたみたり。
何で今までと違うんだと思ってみたり。
昔の自分と比べてみたり。
他の誰かと比べてみたり。
これが出来ていたらと哀しんでみたり。


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人は何らかのタイミングで、何らかの形で、この「出来ない自分」と対面するのではないかと思います。

分かりやすいのが"歳を重ねること"で、だんだん体力も落ちてきて、今まで当たり前に出来ていた日常の事がキツくなってきている事にハタと気付いた時でしょうか。
これは「あーそうか。もう仕方ないな」と何となく自然に受け入れられて、ゆっくり降参していくのだと思います。誰でもそうなのだ、と分かっているから。
そして急に体力落ちないようにするなり、食事に気を付けるなり、その時の自分に合ったもので、その身体の移り変わりに相応あいおうじていきます。歳を重ねることでの体力の衰えは自然なことだから。


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突然何かの出来事でそれに対面するとき。
例えば病気とか怪我とか身体の不調とか。
大抵の場合、すぐに受け入れられることなんてないと思います。

なんとか出来るんじゃないか。
こうしたらいいんじゃないか。
あれがよくなかったのかも。
何で自分が。
このまま続いたらどうしよう。
どうしたらいいんだろう。

まー、出てくる、出てくる。

そして不安の渦に巻き込まれ、焦り、哀しみ、時には怒りがわき。

その時出来る様々なことをやり、やり尽くしたとき。やれることがもうなくなったとき。
その時初めて絶望という名をつけた"諦め"がやって来るのかもしれません。

「諦める」というのは、諦めようと思って諦められるものではありません。
「諦めよう」としているのもまた「思い」だから。


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思い通りにいかないとき。
「自分に出来ない」を見せつけられるとき。

それは
不安にさせるためでもなく、
哀しませるためでもなく、
焦らせるためでもなく、

「出来てなければいけない自分」という
思い と
向き合ってくださいね

というタイミングなのではないかと思うのです。あなたの中にそんな思いがありますよ、と。

だから
出来ない状況 が訪れます。


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"出来ていない自分を責める状況" が訪れているのではありません。

「出来てなければいけない自分」 という「思い」を持っている、ということを"観るため"の状況が訪れているのです。

似ているようで、まったく異なることです。

ある意味、ギフトではないかと思うのです。


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身体というものに限定するならば、それまで元気で何でも出来ていた人ほど、体調を崩したり何らかで自分の身体が今まで通りに思うようにならないとき、それに対するものが沢山出てくるのかもしれません。
出来ているのが当たり前だったから。健康なのが当たり前だったから。

でも、当たり前なんてないのです。
たまたまその時までのご縁で、何事もなく健康でいられ、何でも自分で出来ていたと思っていただけです。

そのご縁というのは、親が健康に産んでくれたからでもあり、色んな人が食物を作ってくれているからでもあり、その他想像もつかないような数多くの大きな見守りのようなご縁の繋がりが今の自分であるということであり。

まるで自分ひとりでここまで頑張って生きてきたと思っていますが、そういった見えないご縁を忘れちゃっているのです。

自分では何も出来ていないということを
忘れちゃっているのです。


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自分には何も出来ない
ということを知ることは
ものすごいギフトです

たとえその時が
どれだけつらくても。


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何かを成し得てきたという
「自分」

本当に「自分」が
今まで何でもやり
出来てきたのか

その
「自分」とは
何なのか



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あなた なのか


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kitoma
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