「自分」にはわからない けど
2回目のフットケアーで 買ってあったけど馴染まなくて履けてなかったスニーカーのインソールを手直ししてもらい指が当たる箇所を伸ばして貰ったりしてカスタマイズしてもらった
すごいのね スニーカーでも布を伸ばせる器具があるのね
中に詰め物してみたり引っ張ってみたり色々したけどなかなか伸びてくれなかったのが 皮ほどは伸びないけど断然指が当たらなくなった
先日直してもらったスニーカーより気持ち土踏まずの所を高くしたそうで 慣れるまで身体のバランス崩れて筋肉痛なったりするかもしれないらしいけど この前直してもらった後も明らかに歩く時の身体バランス変わって数日筋肉痛だったから うんうんと納得
私の足に合わせた紐結びして貰い試し歩きをして どーやら歩き方も妙な癖があったらしくそこも教えてくれて まったくもって有難い限り
そのお話聞いた限りでは今までの歩き方は足の不安個所に より負担掛けてる状態だったらしく あらまーと我ながら笑ってしまった
身体の不調箇所補うために無意識にやっていたんだろうけど それが自ら悪化させる要因のひとつだったとは
歩き方やコツも教えてもらい 手直ししてもらったインソールでベツモノに生まれ変わったスニーカーと歩き方で どのくらい変わるのかとーっても楽しみ
私がやることは 前の習慣に戻ろうとする動きをキャッチして 教えてもらった負担ない歩き方へ戻す事
それは特別筋トレするとかでは勿論なくて 歩き出す一歩を意識する事であって 右足 左足 いっぽ 一歩 常にそこに意識向けるようしていることで その一歩が毎瞬「いま」に在らせてくれる
なぁーんてありがたいんだ! 身体の矯正ばんざいっ!
なにが幸せかなんて
本当にわからない
世間的にみて
一般的にみて
ものすごく大変で
ものすごく不幸にみえたとしても
それがなんぼのもんじゃいっ
それはそうみえた
その人自身の見え方であり価値観であり
違う誰かにそれが当てはまることは ない
同時に
たとえ自分がその時ものすごーく不幸で
大変なんだと思っていたとしても
他の誰かから見たら
全くそうはみえないかもしれない
その時自分が思ってる 不幸だ大変だ は
「自分」が自分につけてる価値観であり
その周りの反応は
その時の自分が自分につけてる価値観を
遠回しな形で教えてくれている
両方とも 同時
どこをどう取るか
どの視座や立ち位置で捉えるか
その違いだけ
自分がキツイ時は
こんな言葉は批判に捉えるし
受け付けず届かないのだけれど
けど 心情おもいはからなければ
起きてる事はそれだけで単なる事実
あたしは可哀そう
可哀そうな私 をやっているのもいいけど
そろそろそこも抜け出して
きっついけどー でもそれは今の私の感覚で
もしかしたらそれは
そうじゃないのかもしれない
そうじゃないと思える観点が
あるのかもしれない
っていうちょっとした余白で
今まで を引っ繰り返すことも
出来ちゃったりする
もうそのくらい
どっぷりストーリーに
はまり込んでいられないくらい
軽くなっている から
今まで拒絶していたことも
案外スルリと出来ちゃったり
受け入れられちゃったりする
ただ 今までの記憶が即座に働いて
それに向かうのを回避させようとするから
それに捕まるより早く
本来のじぶんへ一気にびゅんと
その余白なりスペースなり使って
無限の可能性がある ってことを
思い出す
この自分の頭で考え付いたり
今まで蓄えた行動や感情の記憶なんて
ほーんとに ちっぽけなもの!
無限 に対していけしゃあしゃあと
自分のこの考えが価値観が正しいんです
なんて よく言えてたもんだ 私(笑)
よーくよーく観ると
違う可能性が 無限のルートが
すでに開示されてるよ
自分が絶対 だと
思い込んでいる事さえ気づいていないそこを
ちょっと緩めるだけで
観えてくるよ
無限のわたし に対して
確固たる自分なんて
比べられないよ
無限 は わたし だよ