おもい外れて軽やかへ
いま色んな人に訪れている事のひとつに
古い重い ”思いクセ” の引きはがし
のようなものがあるようです
意識の層の上の方にあるのは
だいたいお掃除が済んで
もっと深い部分が上がって来れるようになり
そのタイミングが来てる人たち
古い重いと言ってもオソレる事もなく
何回も繰り返し長く使ってきたから
絡まってたりこびりついてたり
もしくは
それがひとつのトリガーとなっていたり
人の数だけ様々なので
一概にどーのとは言えませんが
そういった 重い思い まで
外せるくらい
軽くなってきた という事です
この性格は一生変わらないんじゃないかとか
このまま行ったって とか
ちょっと前まで皆が当たり前に感じていた
それ
それ が崩れてきているので
変わらない性格なんてないし
そもそも 性格 って何なの?
と 疑問を持つことが出来れば
しめたもの
この 自分 と思っているものに
纏っているすべては
固定されているものなんて
ひとつもなく
それが 自分だ と
証明できるものもなく
うようよと しゅるしゅると
ひゅるひゅると
流れています
ただ
繰り返されるパターンのような
そんな思考や感情を掴んでは
「これが自分」としているだけで
その繰り返しすら本当は違っているのだけど
固定した自分 で在りたい自分は
他を観ようとしないから
そのような自分 が現れます
そこにはやはり
オソレというものが隠れていて
固定した自分 がいなくなれば
自分 というものの存在価値が
無いのではないか とか
確固たる自分でいなければ
消えてしまうのではないか とか
そりゃーもう様々思うようです
そしてそれらをオソレている のは
自我マインド であり
本来の 本質の じぶん では
ありません
さらには
その自我マインドは
自分がそう思っていることを
分かっています
確固たるもの 固定した自分
でなくても 自分というものは
消えることはない と分ったうえで
それをおススメしてきます
自分というものを守るのが
自我マインドのハタラキのひとつだからです
だからこそ
我々人間はこの肉体で生きていられます
この自我マインドが
あたかも生きて意志で動いているかのようですが
単なる仕組みのひとつ
別の視点観方をすれば
その人にしかない個性特質の一面 です
自我=個性ではありませんが
そういった角度で捉えることもできます
自我もハタラキのひとつなので
今起きている重い思いの引きはがしらは
その自我ハタラキの固まったパターンを
書き換えましょうよ という事でもあります
かつての記憶から引っ張って来る
重いものは 今はもうそうではない
と 見抜き 認め 受け入れる
かつてそうだったかもしれないけれど
いま は そうではない
いま 目の前にそれは ない
今それは無い は事実であるから
いま に目を向ける
記憶でも感情でも思考でもなく
いま という事実 と
共に在る
こうである こうであった
記憶や感情や思考をよけたとき
自分 というものは
どこにいるのかしら
確固たる自分 が居なければ
わたし はいないのかしら
重い思い は
霞と共に消えていく