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まんなかで観る
お散歩をしていると、時々妙に気になる行き先が出たりします。
目的を決めず出る時に「なんとなーくこっち方面だなぁ」とか思って歩き出すのですが、往復で歩ける距離ってもんがありますから、ある程度自宅を中心とした範囲みたいのはあるわけです。
たまーに、その範囲外の方向に「気になる」が突然出たりします。
頭は「これ以上そっち行ったら、帰れなくなるよ。身体に負担かかるよ。」とか言ってきます。ま、そーなんですけどね。「そうなんだよなー」とか思い範囲内の方向へ進もうとしますが、どーしても気になる。何でかは分からない。何があるのかも知らない。頭は「こっちだよー」と言ってくる。うーむ。
こういう時は「気になる」に行っちゃうんですねぇ、わたくし。遠回りすぎるなら何処からかバスか電車に乗ってもいいし。直感的なもんはその時だけなんで、次同じ場所通ってもそうならんのですね。
最近ちょこちょここの「気になる」が出てて、家に帰ると「歩かされたなあー」と感じるのです。歩かされたというのは距離の事ではなくて。
「気になる」に従って歩いてると何か見つけて。それは場所だったり物だったり色々ですが。で、そこでまた次の「気になる」が出るんですね。書かれていたことだったり何かの建物に関連する事だったり。で、そこにまた行くわけです。そうするとまた次が。
私はこういうのを「呼ばれる」と言ったりしてるのですが、まーそんな感じでくるくる廻って、お家戻ると「歩かされたなあー」と感じるわけです。自分の意思であそこ行きたいとかではないから。
そんな感じの時は、だいたいが「点」を置かれてるような感覚になります。何だかよく分からんけど後で「線」になるためのものみたいねーとか思いながら、後はほおっておきます。その時追いかけてもどうせ分からないから。
解る時は考えたりなんかしなくて、その場で「!」となりますから。
「線」になる時は、ものすごーく前に置いた「点」と繋がったりもしますから、考えても仕方ないです。後になって「ああ、そうだったのか」ってやつです。何か大昔の経験と結び付いたり。
だから「これやって何の意味があるのか?」は、それ自体が意味ないことだなーと感じたりします。意味や理由が欲しいのは思考サンなんで、それありきでやってるとその範囲内でしか分からないし、「!」になるとしてもエライ遠回りなんじゃないかしらん。それもアリですが。
この身体で生きてる限り、やっぱり精神だけでなく身体も使わないとあかんわけで。
幾らあっちこっちからそれらしき情報を集めて精神的豊かになった(気になった)としても、身にはなってないわけで。
「○○さんが言っていたから」とか「○○にそう書いてあったから」と頭の中だけで得た気になり、それがまるで自分が理解したかのように現れたりします。
知る と 理解 は異なります。
知識として”知る”のは自分で出来ますが、「理解」は自分でやれるものではなく、訪れるものです。理解しようと思って理解できるものではありません。
理(ことわり)が解(ほどけ)て訪れるもの。
ほどけるのは自分の概念やらで、それがゆるんだときにそのスキマから瞬間観えた理がしゅるると入ってくる。
知識として「知って」そうなんだーそうだったんだー、となるのは「信じた」だけで。
身を通して理解したものは「信頼」になるのではないかと感じます。理解出来たから信頼に繋がる。
信頼するには自分の「感覚」が必要で。
頭で幾ら「信じて」もそれは思考なわけで、思考で信じてる限り「自分が」を強めるだけではないのかなと。
「あ、解った」というのは体感通して「感じる」もので、”解った”ことを「信じてる」とはならんのてすね。「信頼してる」になっちゃうのです。理屈も理由もないけどそーなんだ、っていう理解です。
まー自我さんのスゴいところは、この「信頼」でさえも、あたかも「自分が信頼した」とすり替える巧みな技をお持ちなので、気がついたらそっちにハマってたーなんて事にもなったり、もしくは「じゃあ、信頼するにはどうしたらいいんだ」と投げ掛けてきたり。
その「どうしたら」が既に思考なんで。
もう今の世の中「知る」でお腹いっぱいで。
今度は感覚使って、その知ったことを今のジブンに合ってるか、本当に必要なのかを体感として削いでいくときで。本来のジブンに合ってないものは出さないと、「理解」が訪れるための「知る」が入るスペースがなかったり。
知ることで知識が増えるだけでなく、雑音も同時に増えてるということですから。
どれがジブンにとっての雑音かを見抜くためには、やはり本来のジブンというものの感覚を澄ますこと、深める事かなーと。
ジブンの感覚はじぶんにしか分からんですから。
その感覚が澄んでくれば、いま必要ないものは触れる前にわかるようになりますし、触れることが違和感となってくるので自然と離れるようになります。
知識欲であれこれ突進するよりも、まずは自分をゆるめてゆったりして、ジブンの声に耳を傾け本当にジブンに合ったものに寄り添うことが、自分が安らぎ和み、ヨキかなーと感じます。
あちらこちらで
和み が目覚めはじめています
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