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あたりまえがうつりかわり
朝出勤の時に交通系カードにチャージしようとしていたら、サラリーマン風の紳士に呼び止められた。
どうやら一日限定の区間乗り放題の切符を間違って買ってしまったらしく、まだ使えるからと切符購入しようとしてる人に声かけしてたらしい。私はそのまま仕事なので有り難くお断りしたのだけど、その切符説明をされてるなかで素敵な言葉を頂いた。
「自由にどこでも行けます」
冬至明けで新しいサイクルが始まった日の朝に、知らない方から飛んできた言葉。
ああ、素敵なメッセを貰ったなあと足取り軽く職場へ向かった。
ちょっと変わった出来事があった時は、「何のお知らせだ?」と読み解くのが癖になっている。たいてい何かしらが隠れてる。無理にこじつけてあーかしらこーかしらとやるのではなく、なんとなくポン!と「ああそうか」とわかる。
「自由にどこでも行ける。」
物理的なお話じゃない。自分の制限を外して、好きなところへどこへでも何でも出来ますよ、そういう新しいサイクルが始まりましたよ、というメッセージ。
今日はその他にもたくさんメッセージを貰った。何気ない日常の中で、たくさん。気のせいとか偶然とか、そんなもので片付けられてしまう事が殆んどだけど、あちらこちらにメッセやギフトは隠れてる。隠れているというより転がっている。受け取り方次第。同じものを観るなら、どうせなら楽しく観れたほうがやっぱりご機嫌さんでいられる。
目の前で繰り広げられる出来事は中立。何かは起きているけれどそこに固定されてる意味はなく、意味付けしているのはすべて自分。良く言えば、自分次第でいかようにでも受け取れ意味付け出来る世界。
これを「じゃあ全てをポジティブに捉えればいいじゃない!」とかなってみたりしてそれを推奨されちゃったりするけれど、それもちょっと違うんだよなーとなったりする。もちろんドヨヨーンとなってるよりかはいいのかもしれないけれど。
物事現象は中立であり意味がなく。この世界は対極でものごと捉えるから、中立を中心にグラデーションが生まれて良い悪いとか優劣とか、どちらかがあれば必ず反対のどちらかがあって。
どちらも、ある。
どちらもあって、成り立っている。
その対極グラデーションのどこら辺がその時の好みかというだけの事で、その瞬間それを掴んでるだけでしかないのだけど。その掴んだものに意味付けして「その瞬間の自分」が思ったり感じたとなっている。そして「経験」としてまたどこかに蓄積されて。
この身体機能のすごいところは、目の前に起きているのは意味のない中立な出来事なのに、それを目で見て耳で聞いてと無自覚にやってそこに「自分が」を取っ付けてあたかも"自分"を成り立たせてしまうところで。
その「自分が」がくっ付き過ぎてメンドウだったりもするけれど、でも、この身体というものがあることで「美味しそうだなー」という感覚だけの世界から、実際食べてみて「美味しい!」という体感覚を加えて味わうことが出来る。それはこの地球上で生活しているという上で、ものすごい事なんじゃないのかしら。
何でもないことに、意味付け出来てしまい、それを体感覚でも感じることができ、更にはそこから自分の物語を創り出して日常として人生として過ごしている。
そしてそれを自分が生きていると思っている。
この「自分が」という自我意識/エゴがあるからこそ「出来ている」「やっている」「成し得た」とかいう人間としての楽しみがあるかのように感じることができ、そういう社会が出来上がってきたけれど。
そろそろそれも変わってきたのかもしれない。
「自分が」を外してしまっても、楽しみが薄れることはない。それがあることで纏わりつく苦しみや恐れは軽減されたとしても。
そして自我意識が消滅してポヨポヨ浮いてしまうこともない。思考や自我がなければ日常生活は送れないから。
「自分」というものの捉え方が変わってくる。使い方が変わってくる。
この身体だけが自分すべてじゃないと感づいてくる。思い出してくる。
だからと言って何々星からきた宇宙人だと言うわけでもないけれど。そっちへ振り切ってしまう遊びもまた楽しいけれど。
自分に向き詰まってしまった時そういう情報に触れてそこに救いを求めてしまう場合もあるかもだけど、よくよく考えてみれば地球という星で暮らしているのだから、誰でもみんな宇宙人な訳で。そこに特別感をもつ必要も全くなくてむしろ当たり前なのだから、それらの言葉に必要以上に傾向するようなら、それまた自我の働きで遊んでいるとなるのかなと思う。
「自分」というものの捉え方が変わってくることで見えてくる世界が変わってくる。
それでもどうしても「自分が」聞いて「自分が」知ったとなってしまうけれど、段階踏んで少しずつ変化して行くし何かの気付きが訪れるかもしれないし。
その段階の中には「もとはみんなひとつなのだから」という言葉のトラップもあったりして。
「自分」が「言葉」を聞き取り入れてる限りは「自分でつけた意味付けの世界」から抜けにくい。
それでもそういった捉え方がゆるんできている世界へ移り変わっているいま、今までにない変化もあるだろうし、なにが起こるか訪れるか分からないから面白い。
冬至を過ぎたからと言って突然世界が変わるわけでもないし、お陽さまは今日ものぼって輝いている。
空は青く綺麗で、風は冬の冷たさで、お風呂に入れば心地よい。
その、当たり前の日々。
何てことのない日常。
そのなかに秘めている奇跡。
目の前の小さなことの摩訶不思議さ。
これから魔法がとけていく。
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