動きのケハイ
最近前ほどお魚を食べたいと思わなくなったなーと思ったのだけど、どーやら味噌汁のお出汁を煮干しに変えたからっぽい。
メンドクサイから頭とかも取らないし、そのまま具として食べちゃうから、ほぼ毎日食べてることになる。
まー私に限ってなのかもしれないけれど、こうなると何をもって「食べたい」と湧いて来るのか、不思議でしかたない。
毎日の習慣で食べてるとか、しきたり的に食べてるとか、そんなもん外したら、どれだけ身体の声が聞こえるんだろう。
頭を使わなければ使わないほど物事がスムーズに運ぶというのを、このところ見せられています。
「自分が」「過去の記憶に基づいて」動くと、どーにもヘンテコリンになり、そこで気づいて流れのまま場に任せて都度都度対応すると、あれよという間に見事なまでに済んでしまいます。
不思議なもんです。
自分がやらんほど上手く流れる。
やらんと言ってもその都度対応はするのです。ただ、あーやってこーやってと予めガッチリ決めてその通りにやるのではなく、起きたその時にハート感覚で思うがままその場で対応する感じです。
先日も所用で訪れた場所で、始め降りた階が「間違えた」と思いそれらしき別の階へ行ったら、先ず始め降りた階で手続きが必要だったらしく。
移動しながら「なーんだ、身体はちゃんと合ってるんじゃん。"自分"が邪魔してるだけじゃん」と笑ってしまいました。
そこから意識を流れに合わせるようにしていたら、その後はスルスルと見事に事が済んでいきました。
気付いたらその場で意識を変える。
いまは軽いので、直ぐ変わります。
よーくよーく観てれば、その変化を感じられます。
久しぶりに過去の化石のような方にお会いしました。
たまたま隣に(と言っても今のご時世かなり距離はあいてますが)座られたその初老近くの男性、パタパタとスタッフが来てもう一度何かの提示をお願いしたいと言うと急に怒りはじめました。結局提示し事は済んだのですが、その間もその後もずーっと独り言のように文句を口から出しています。
はー、まだこんな人いるんだと思いながらも様子を伺ってましたが、なんでしょねー、その人から文句の言葉が出る度に、その周りだけピシッと固まりが生まれてるようでした。
それを幾つも纏いながら、その人は去って行きました。
周りも確かにヤな空気は受けますが、やっぱり自分が放った言葉はそのまま自分が纏ってるんだよなーと改めて感じ。
たとえ誰かに対して意図して投げた言葉でも、愛をもって投げたのでないのであれば、見えないところでは全てその人自身に降りかかっているようです。
逆からみれば
「受け取らない」と自分が決めてしまえば、誰かが投げた言葉は入ってこないです。
ヤな気持ちになる言葉を受けたのならば、受けとるなりのナニカが自分のなかにあるのかもしれません。
どこか観なきゃいけない所とか。
何らかの気付くためのお知らせかもしれません。
全く関係なく気にもならなければ、それらはただの音として流れて行ってしまいます。
言葉に意味付けしなければ、音が流れてるだけです。
色々なものが
様々な分野で
ワサワサと動き出したような
そんな気配です
思っていたよりも
ずっと広い範囲で
細やかに健やかに
流れ始めてるのかもしれません
「自分」を握りしめてると
おそらくその変化は
より感じにくくなるのでしょう
「自分」ありきのこの世界で
どこまで「自分」から離れられるか
その人それぞれのタイミングで
本気度 が試されるかのような
そんなものがあるかもしれません
まだ
三次元世界で
右往左往を楽しみますか?
もうそろそろ
いいんじゃないんですか?
と