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なぜ揺さぶられている(と感じる)のか
こう毎日パワフルエネルギーだと
昨日の新月とかも何だかフツーに感じられて
いやいや結構なものでしたのよ?なのだけど
あ そうか新月か くらいなもんで
当たり前の中に消えて行きます
時節の変わり目もあるし様々な切り替えで
体調的に強制終了かかってみたり
そんな人も多いみたいで
私も含めてみんな うひゃあ~ となりながら
それぞれのそれを迎えているようです
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自我自分エゴ自分にドップリ浸かっている時には
ここでの言葉は届かないし伝わりません
何を見ても読んでも聞いても
全てが「その時の自分にとって都合のよいように」
エゴフィルター通して受け取ってしまうので
全ての事が自我のエサとなり歪んで取り入れます
どこぞで読んだ有難い教えやレクチャーなども
「そうすれば良くなるんですね」となります
つまりは
外側に答えらしきものを見つけたように感じて
それを自分都合に変換して取り入れようとしています
その視点でいる時には
何を見聞きしてもそうなるので
自分で 自分がそうなっている と気づくしかありません
そんな時でも自分のまわりには
それに気づくようヒントが散りばめられているし
気づきに向かうよう何かしらは起きているはずです
ただ それさえも
その時の苦しさから逃れるための手段として
自我は捉えてしまうので
こればっかりは経験して そうなんだ と
そこを見極めたいと心底思わないと難しいし
そうやってもまた自我の匠技に何度もやられます
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自分にとって都合の良い「ラクさ」と
本質から来る「心地よさ」はベツモノです
こちらをやればラクだからというのを
自分の心地よさとすり替えてしまう事も多々あり
これもやはり経験して 違うんだ というのを
自分の感覚で知るしかありません
こうなったらこうなる だからそれ
は もう過去の産物です
こうなったらこうなる ならば
その情報にひかれるならば
それが自分にとってもそうなのかを
先ずやってみないと
自分にとって合うかどうかは分からないし
それらは本人にしか分かり得ません
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どれだけ言葉があろうとも
どれだけ文字があろうとも
それに意味づけするのはその人で
それは人それぞれ全員違います
なので実際は
あの人がああ言ったから とか
ここにこう書いてあったから とかは
成り立ちません
それらはあくまでもヒントであり
その時々のサインです
言われたこと書かれていた事がどーのではなく
それらに 自分がどう反応したか です
そこに気付かない限り
外側の何か を正として
それらに答えを求め続けることになります
それは 外側意識の生き方 です
それが 今まで当たり前としてきた生き方です
今はそれが変換されている真っ只中です
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だから
外側意識に向かいすぎている事柄や癖や
外側意識で培ってきた思考感情らで
それらをヨキとしている事や
逆にヨロシクナイとして避けている事や
習慣としていつの間にか身に着いた思考癖や
本来のじぶんを隠しているものあらゆる物事へ
揺さぶりが起きています
全ての人に起きているし
全ての人が受け取っているのだけれど
それが自我意識どっぷりだと
何で私だけが と 変なねじりになっています
人によってその現れ方は様々だから
自分にとっては大変と思える事でも
別の人から見たら大したことではないかもしれないし
その逆も然りで
そういう視点から観れば
自分だけが大変 というような意識であるときは
エゴ意識がフル活動しているかもしれない
と言っていいかもしれません
そしてそこに偏り過ぎていると
それがイカリや焦りへと形を変えて
自分や自分以外のものへと向かいます
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いま起きている体調不良や
デトックス的なもの様々は
この今まで当たり前としてきた
「自我」というものがどういうものであるか
そこへ改めて目を向けさせる為の一介とも
言えるかもしれません
べったり張り付いている自我との間に
ほんの少しの隙間を作り
「?」という瞬間に気付かせるもの
それは何かの出来事を通してかもしれないし
不調が明けたら何となく変わっているかもしれないし
何からどう転じるかは人それぞれです
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またストーリー的に書いて
自我が喜びそうですが
あらゆるすべての人々は
その種を持って生まれ出て来ています
いまはその種を持っていたという事を
思い出すためのノックやコールが
色んなカタチでなされています
それを持っていない人は
誰ひとりとしていないし
それに気付くチカラのない人も
誰ひとりとしていません
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じぶんというものには
そんなチカラがもともとあるのだと
そう知るための 気づくための
あれやこれやです
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