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想い 響く piece_vol.87

意識の拡がりというものをまざまざと見せつけられ、そして感謝にあふれています。

Instagramに上げた水流の動画が、2200越える閲覧数があって。私にとってはスゴイ数字で。
しかもイイネを押してくれたのがほぼ外国の方なので、閲覧(視聴)もそんな感じじゃないかと推測ができ。

そもそもInstagram操作がまだおぼつかず、今回の動画もリールとやらの機能を使ったのですが仕組みはよく分かってない。
ハッシュタグも日本語しか付けてないし、なんで海外の人がそんなに観てくれたのかも分からない。

なのだけど。
すごいなーって思います。

今回のはあの水流の音がホントに心地よいので、2019年のものですが今この時期に身体ザワツキあった時とかにスーっと流してくれていいなぁと思ってUPしたものでした。聴いてくれた人が、ちょっと森散歩してる気分が味わえればいいなと。


安曇野の樹々たち(2019)


思いもよらない閲覧に、海外の方が多く観てくれたなら、もしかしたらその中に、いまタタカイの地に居て、悲しい外音の最中さなかでも、30秒だけ安らぎが訪れたかもしれない。30秒だけ森のなかを散歩できたかもしれない。
そんな夢想ができてしまったのでした。

それまでの私に海外という概念がなく、広くても日本のどこか。
けれども今回の事で、それが一瞬に海外まで広がりました。したこともない夢想が湧きあがりました。

想い描けたということは、そうであるということ。
タタカイの地でないとしても、あの30秒のお水さんの安らぎが、世界のちょっとひと息入れたい誰かに届いたということ。

そうなのか。こうやって「想い」は伝わるのか。直接物理的に何か出来ないとしても、こうやってカタチとして現れてくれるのか。届けることができるのか。


安曇野 原生林入口付近の水流(2019)


もちろんだからと言ってこれから同じような動画を上げるとかそんなのではありません。

意図する元。意識する元。
ジブンがヨロコブもとから「動く」というのがどういうことなのか、感じさせて貰える出来事でした。

誰かを癒したいとか観て貰いたいとかそういうのを取っ払った、モトから湧き出るものをただ現すと云うことがどういうことなのか。

それを体現することによる、自分の意識の広がり、視点感覚の広がり。その感覚。

あー、今までえっらい小さな所で意識を使っていたなぁと。なるほどなーと。

意識は一瞬で変わります。
意識を向けたものへエネルギーは動きます。
そこに時間も距離も関係ありません。

少し前からずーっと来てた「全部をエネルギーとして観よ」の意が、ちょっとだけ解りました。肉体の目で観るのではなく(まぁエネルギーだから見えませんけどね)、自分のこの身体も含めた全感覚をそれで観る。うーむ、慣れるにはもうちょっと練習が必要なようです。

安曇野(2019)


そしてもう1つ。”流れ”というものがどういうことなのか。

約3年前「穂高養生園」に訪れたのは、その名の通り養生するためでした。
身体の不調が思うようにならず、内観はしてたとはいえ当時の環境切り替わりなどのタイミングでもあり精神的にもどーにもこーにもで、突然思い立ちたまたまネットでヒットしたここに、前日予約でほぼ飛び込みのような形で訪れた場所でした。

安曇野でも高地にあるため自然がそこらにあり、原生林もハイキングコースの1つとしてあったのですが、前日の雨で足元が悪く、入口手前までで戻ったのでした。

入口手前と言ってもじゅうぶん山中で、横をずっと流れている川音と鳥の声しかぜず、「この川音を自宅で聴けたら気持ちいいだろうなぁ」と自分のために録ったものでした。
悪天のお陰で人もおらず、ニンゲンは私一人でそれ以外は全て自然界でした。

自分を癒すために録ったもの。
その後スマホに入っていた事すら忘れます。先日データー処分をしてた時に久しぶりに聴き、「あー、やっぱり(身体を)通してくれるなぁ」と、消さずに残していたものでした。

で、今回のエネルギーがパワフルでちょーっとザワツキ長引きそうだなぁと感じ、わりと即効性のあるこの水音を思い出したのでした。

Instagram上げるときも、実は中に文字を入れようとしてみたり色々試したのですが、どうしても思うようにならず。もう諦めて、超シンプルなそのまま流すだけーという形になりました。

そして海外の方にも観て頂いてる事を知ります。いや、観れるのは知ってましたが、あんななんの変哲もない川辺のものは興味ないだろうと。

・数年前の凹んでいた自分のために撮り、忘れ去られていたもの。
・出来上がりは結果日本語を入れることもなく、そのままのカタチがのることになり。
・「UPしようかな」の発端がなーんも考えずただ「これ心地いいんだよなー」ってだけで。

そして、私が以前生き方在り方の覚悟を決めた時、ウエに投げていたものは、「この特質個性を体現します。何が現れるのか見てみたい。見せてください。」でした。


安曇野(2019)


身体に不安を抱え思考も感情も何も感じなくなっていたあの時の自分のためにした事が

何の作為もなく成り行き(自分としてはこうしたかった、でも出来なかった)で現れ

世界のどこかの誰かが
あの時山中で私が感じた安らぎを
ほんの一瞬でも感じ
味わってくれたのかもしれない


私がキャッチした感覚を
形で見せてくれたのだと
感じました

「自分」を使わず
ただ本質の感覚だけで動いたとき
こうなりますよと

いい加減
信頼なさいと

安曇野(2019)


何がどうなるかなんて、分からないのです。
キツイときツライときは、何でこんななんだと思うのです。でも、それが必ずしも「よくなかった過去」「どうしようもない過去」ではないのです。
それは、頭のなかでそうだと決めつけてしまっている自分でしかないのです。自分で自分につけてる囲いでしかないのです。

安曇野(2019)


どーしようもなかった時の自分が
数年の時を飛び越え
ギフトを届けてくれました

そのギフトは
まるで世界中の人々から
大丈夫だよと
言って貰っているかのような
そんな そんな感覚でした

そして
無作為で生きるということは
どういうことかと

どうしようもなかった時の
モノゴトらの点が
いま の点と結びつき
紡いで現れてくれました


なにが起こるかなんて
このちっちゃな「自分」では
わからないです

「自分が考えられる」範囲”外”は
無限です

「自分が」やろうとしなければ
その無限さが現れます

時には「自分が出来なかった」
という形をとって
それを現してくれます
さもワルい出来事かのようさえ
思わせてくれます

大いなる流れを
流れてないとしてるのは
確固たる「自分」という
「思い」でしかないのだなあと
つくづく感じます



思いもよらないギフトで

わたしのセカイが
とてもとても
豊かになりました

そして
あの水流でちょっとの安らぎを
感じてくれたならば
それは
世界のどこかの誰かも感じたものと同じで
トキもマも関係なく
その瞬間を
響いてくれて

ありがとうございます


ほんとうに
ありがとう

たくさんのギフトを
ありがとう


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。