見出し画像

近すぎて疑問にすら問えないもの

言葉というものは
本当に難しい

ひとつの言葉があって
同じ意味合いで会話しているのだ
と思っていても 紐解いてみると
まるっきし違う意味合いで使っていて
そりゃー会話にズレが出てくるよね となる

けれどこれが
それぞれ自分の世界で起きている事だから
言葉の意味合いは人それぞれ違うんだよ
って事に 素直に気付く人が少ない
(もちろん私も含めて)

頭では理解しているつもりでも
いざ何かあった時には
その時の状況やら感情やらが絡まって
だけど相手がこう言ったとか
そんなつもりじゃないのに変に取られるとか
そこからぐちゃぐちゃになったりもするし
そういう時は
自分の(意味づけの)正当性を
これでもかってくらい
自分の中でも主張し始めるから
自分の中でエゴ自分に取っ捕まって
更にそれが正義のようにさえ感じられて
もう訳がわからなくなる

多分それが多くの
今までの世界



人それぞれ自分の世界で生きているから
言葉の意味付けも人の数だけあって
似通う事は勿論あるけど
ピタっと何から何まで合致する事はない

逆から言えば

言葉の意味付けがそれぞれ違うから
人はそれぞれ
自分の(自分だけの言葉の意味付けされている)世界に
生きているとも言える

それは
親だろうが 子だろうが
どれだけ近しい人だろうが
言葉の意味合いが完全合致することはない

合致しないから
この世界が成り立っているのであり
合致しないというのは
個性の種でもあるのだから
合致するわけがないし
しないからこそ我々が活きている



だから
意味合いが異なることは
当たり前なんだよなー

当たり前だから
「相手はこの言葉で
何を現わそうとしているんだろう?」と
その異なる部分の差を縮めるために
お互いがお互いを 思いやる という事が
大切になってきて
日本人というのはもとから
その 思いやる という事が
自然に出来るような体質で生れ出て来てる

気配り という言葉に
置き換えてもいいけれど


コミュニケーションが上手と言われている人は
この 相手が現そうとしているもの を
相手目線でキャッチしやすかったりするのだけど

相手目線でキャッチ出来たからと言って
それをどう変換させるかは またベツモノで
そこにその人の個性が出てたりもする



今は
自分が付けた言葉の意味付けの正当性 が
ほぐれた人から 解れた分だけ
意味合いにおける真ん中へ
戻りやすくなって行っていて

それはつまり
今までは前のめりにしかなれなかったのが
少し引いてみれるようになっている
という事であって

相手の意味付けに同調は出来なくても
相手はそういう意味づけをして
この会話をしているのだな という事に
気付くことが出来るようになって

そこに 自分の正当性に絡んだ感情 が
暴走しなければ
ああ だからかみ合わないし
お互い理解ができなくて
ぶつかっているのか と
理解が出来るようになる

不思議な事に
ここ辺りまで気が付けると
一方的に相手がワルイとも思えないし
自分の方がワルイとも思えないから
単にお互いの意味付けの違い ということが
理解できるようになって

もう一歩踏み出せるようであれば
あなたはこういう意味づけをしてるけど
私はこういう意味づけをしてるのです と
言葉を使ってその違いを伝えることが出来る

それは
相手の意味付けを否定している訳でも
見下してる訳でもなくて
ただ単に 私はこう意味付けている という
事実を伝えるだけであって

そこに
どちらかの正当性は ない

だって
お互いそれが正しいと思って
その言葉をその意味づけで使って
生きて来たのだから

言葉の意味付け というのは
イコール
今までの生きて来たさまとも言えて
つまりはそれが
今まで自分の生きて来た世界

私の世界は
私の意味付けしてきた言葉で
いっぱいだ



じゃあ
その意味付けられる前の
そこは?


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。